「後に聞くところによれば、姫一行の逃れ行く先の下総の槻木家も、目まぐるしい戦国情勢の転変の中で敵方に寝返らざるを得ない仕儀になり、姫を迎え入れると却って存続が危うくなる立場に陥っていたそうな。ひそかに野盗と通じ、彼らを差し向けたのは、お家の一大事を察した槻木家の家臣ではないかという噂が、しばらく絶えなかったという。
……思うに、生涯男女(なんにょ)の愛恋を知ることもなく、清らかな乙女御のまま、あまりにも不本意な、あまりにもむごい仕方で逝かねばならなかった姫君の無念の魂が、生への執着を断ち切れぬまま、現世をさ迷っていたのであろう。それがお前の笛の音を聞き付けてお前に想いを懸け、取り憑いているのであろう」
拓善は、いたわしげな表情で言いました。
「あれが夢幻の出来事であるとは、亡霊の仕業であるとは、私にはとても思われません。姫様はまことに心の清らかな、情の濃やかな、お優しい方でいらっしゃいました」
宗佐は熱い口調で訴えました。
お前が相手をしていたのは亡霊に過ぎないといくら告げられようとも、沙代里姫と親しく語り交わした愛おしい時間、思わず握り締めたその細く冷たく柔らかな手、たおやかなその体を初めて胸に抱いた時の恍惚たる瞬間、喉元を撫でた百合のような甘い吐息、衣から漂ってきた橘の甘く爽やかな香りは、宗佐には紛いようもない現(うつつ)の出来事としか思われませんでした。
もしもあれが夢幻であるならば、一体現世の何が実在なのかと問い返したくなるほど、宗佐にとって姫の記憶はみずみずしく、鮮やかなものでした。