しかしながら多喜二が残した記述のみならず、他の資料でも末治の存在が見えませんでした。どこで何をしていたか不明だったのです。ところが小林三知雄の記事によって「育ての親」の存在が判明しました。

生まれてすぐ佐藤藤右衛門家の誰かに預けられたのであれば、周囲からは佐藤家の実子に見えたはずです。


1 小林三吾『わたしの北海道』 朝日新聞北海道版 1977年

〈附記1〉

図4に示した新聞形式の記事には「小林家略図」として家系図が書かれています。ここには「安倍彌吉校長の養女クニの子として善高(三ツ星製菓常務)」とあります。

第5章で詳解しますが、これは間違いです。クニは養女ではありません。未亡人になった後のイマに、クニの娘スミが養女になりました。

著者は小林家のことをよく知っていながらも、何らかの確実な資料を基にしているわけではないということです。

聞き知った範囲に頼って書いた内容であり、著者はそんな距離にいた人物です。間違い自体が問題なのではありません。「安部家を辿って」の中に安部彌吉校長にまつわる記事、「安倍彌吉校長のことども」が載っています。

これの著者は小林三知雄です。文中に「奥さんのイマは……くに(川口の佐藤本家)養女とし、その娘ツネの……」とあり、同じ間違いがあります。小林三知雄が書いた冊子として「旧下川沿村郷土読本人物編」もあります。

これは「小林多喜二に関する新聞形式の記事」の2年後(昭和55年)に書かれたものです。この中には内容だけでなく、多喜二について説明する言い回しにも共通部分があります。

これらのことから、この新聞形式の記事の著者は小林三知雄の可能性が高いと思われます。

 

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