前半が欠落しておりタイトル・著者とも不明です。昭和53年(1978)2月20日という多喜二の命日に発行されたことと、著者は三郎右エ門の身内であることしか分かりません。
記事の内容からすると著者は小林家に近い人物であり、セキとも知り合いです。他の資料と照らし合わせることで、著者は小林三知雄だろうと推測できました。〈附記1〉を参照してください。
小林三知雄は「旧下川沿村郷土読本人物編」や「安倍彌吉校長のことども」を書いており、多喜二が育った地のことに詳しい人物です。
この新聞形式の記事には多喜二が死亡した時の手続きが詳細に書かれています。多喜二の兄弟についての記載は私の手元の除籍謄本と同じです。
従って著者の手元にも戸籍謄本があったと考えられます。記事には戸籍の記載通りに多喜二の誕生日は明治36年(1903)12月1日と書かれています。
しかしながら「実際は10月13日生まれ」との注釈があります。産みの親セキが「旧暦8月23日(新暦で10月13日に相当する)生まれだ」と言っているので、戸籍よりもセキの方が正しいと考えたのでしょう。
記事の中で3男末治についての記載は重要です。「三男 末治は当時近くに住んでいた佐藤藤右エ門方の実子で、どういう関係からか入籍になっており……」と書かれています。特に「末治は佐藤藤右エ門方の実子である」と断定しているのは注目に値します。
「藤右エ門の実子」ではありません。「……方の実子」ということは「その家の誰かの実子」ということです。第三者の目からは、はじめから末治が佐藤藤右衛門家にいる誰かの子供に見えていたのです。
このことから私は「末治は生まれてすぐに佐藤藤右衛門家に預けられた」という仮説を立てました。
この新聞形式の記事は平成24年(2012)に見つけたと書きました。私はそれ以前から除籍謄本の内容を知っていました。
そこには末治のことが書かれていました。そのため昭和3年(1928)7月の満22歳の時に、末治が佐藤藤右衛門および養女チヨと婿養子縁組したことを知っていました。