夜、ベッドに横たわると、決まって一つの幻想が頭をよぎる。もし、あのとき別の選択をしていたら——。
彼女が「カフェで働きたい」と言ったとき、「いいじゃないか」と背中を押していたら。休日に彼女が映画を提案したとき、「行こう」と即座に答えていたら。子どもが欲しいと告げたとき、「そうだね」と笑って頷いていたら。その一つ一つの「もし」が連なっていく。
僕の脳裏には、別の人生が映し出される。
その幻想の中で、僕らは郊外の小さな家に暮らしている。庭には子どもの遊ぶ声が響き、夕暮れには三人で食卓を囲んでいる。彼女は笑っている。子どもにスプーンを渡し、僕に目を向けて「今日はいい一日だったね」と言う。僕も笑っている。テーブルの上には温かな料理と、穏やかな会話が満ちている。
その光景はあまりにも鮮やかで、現実の空虚をかき消すほどだった。
だが目を開ければ、そこにあるのは暗い天井と、一人分の冷たいベッドだけだ。幻想は蜃気楼のように消え、僕の手には何も残らない。「時間は戻らない」——その事実だけが、砂のように重く積み重なっていく。砂漠の上で背負うリュックのように、じわじわと肩に食い込んでくる。
僕は彼女を愛していた。間違いなく。けれど、その愛は彼女を窒息させる種類のものだった。守るという名の支配。正しさという名の暴力。僕はそのことに最後まで気づけなかった。気づいたときには、すべてが手の中から零れ落ちていた。
いま僕が背負っているのは、その罪だ。取り返しのつかない過去と、選ばれなかった未来。その両方を抱えて、これからも生きていかなくてはならない。
時折、夜の街を歩く。ビルの隙間から風が吹き抜け、コンビニの灯りが虚ろに点滅している。すれ違う人々はみなそれぞれの人生を抱えて歩いている。僕もその中の一人に過ぎない。けれど、僕の背中には彼女の笑顔を奪った罪が刻まれている。その重さは消えない。消してはならないのだろう。重荷であると同時に、それが僕の唯一の現実だからだ。
「もし別の選択をしていたら」——そう考えるたびに、胸の奥で小さな炎が揺れる。その炎は微かな希望にも見えるし、懺悔の灯明のようにも見える。だが炎はすぐに風に吹き消され、灰の匂いだけを残す。未来はどこにも存在せず、過去はもう取り戻せない。僕にできるのは、その匂いを吸い込みながら歩き続けることだけだ。
彼女の笑顔は、もう僕のものではない。だが、それでも僕はあの笑顔を背負って生きる。罪として、あるいは罰として。——そうして、取り戻せないものと共に、これからも歩き続けるのだ。
本連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。
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