【前回の記事を読む】「もう、笑えない」——その一言が胸の奥で何かを終わらせた。僕はまだ、自分が正しいと信じていた
第四章 取り戻せないもの
彼女は荷物をまとめ始めた。クローゼットの扉がきしむ音、スーツケースのチャックを引く音、それらが一つ一つ、僕の耳に突き刺さる。白いワンピースの裾がかすかに揺れ、その背中は、同じ部屋にいるはずなのに、果てしなく遠くに見えた。僕の声はもう届かない大気の向こう側へと離れていくようだった。
「もし子どもがいたら、変わってたのかな」
彼女はそう呟いた。問いというよりは、自分自身に投げかけた独り言のようだった。僕は答えられなかった。答えれば答えるほど、嘘になる気がしたからだ。胸の中に渦巻くのは、過ぎ去った時間への後悔と、もう取り返せないことへの恐怖だけだった。
午後、彼女は静かに家を出ていった。ドアの閉まる音は不思議なほど小さく、耳を澄まさなければ聞き逃してしまうほどだった。けれどその音は、確かに一つの時代の終わりを告げる鐘のようでもあった。
そのあとに残されたのは、広すぎる空虚な部屋と、冷たい風だけだった。家具は何も動いていないはずなのに、部屋の輪郭そのものがどこか歪んで見えた。
その夜、僕は一人でワインを飲み干した。グラスに注がれた赤い液体が、ランプの光を受けてゆらゆらと揺れる。その揺れを見つめていると、胸の奥に穴が空いていく感覚に襲われた。まるで心臓の一部が失われ、そこから冷たい風が吹き抜けているようだった。グラスの底に沈む赤い影は、取り戻せないものの象徴のように見えた。
それからの日々は、乾いた砂漠を歩くようなものだった。仕事をしても、食事をしても、眠っても、どこか現実感が伴わない。砂を握っても指の間から零れ落ちてしまうように、日々の手触りは頼りなく、掴んだそばから失われていった。
街を歩くと、ふと彼女の姿が見える気がする。駅のホームで、スーパーのレジで、通りの向こうで。だが目を凝らすと、それはまったく別の人だった。僕は何度もその錯覚に打ちのめされた。
彼女の笑顔は、もはや幻影としてしか現れなかった。鮮やかに思い出すほど、それが現実には存在しないことが突きつけられる。その矛盾が僕を消耗させた。