会話学校での短期集中講座が終わり、福岡市内の社宅に戻った。大阪に行く時にはまだ基礎工事が始まったばかりだった福岡工場が、卒業した大学のすぐ近くの食品工業団地内に完成していた。会社は私の入社前年に大阪工場を造り、その後すぐにメイン工場を福岡市内に移すなど成長期にあった。真新しい大きな工場を見上げ、会社の発展に負けないよう、自分も海外生活を経験し大きく成長したいと思った。

準備が整い、1984年9月27日、福岡空港からフランスに向け出発した。田舎の実家から福岡空港に両親が見送りに来てくれた。普段に比べ元気がなく心配そうに黙って座っている親の顔が気になったものの、まだ若かった私は、やっとフランスに行ける、フランスではいろんなものを見て経験したい、フランスでの生活はどのようなものだろうとわくわくしていた。

2年後、帰国して初めて聞いたのだが、その当時、母は膵臓腫瘍手術、父はがんによる腎臓摘出の手術を控えていたとのことだった。親の病気を知ると私がフランス行きを躊躇するかもしれないから治郎には言うな、と兄たちに厳命していたとのこと。幸い二人とも手術後の経過が良く、2年後に帰国してすぐ無事再会できた。

親としては、子供の頃から兄や弟に比べやんちゃでいろいろ心配をした次男坊の顔を見るのもこれが最後になるかもしれぬと悲壮な思いをしていたのではと、空港での写真を見返すたびに涙が出る。両親は私のフランス行きより前にヨーロッパ旅行もしていたのだが、大正生まれの九州の田舎者には、フランスはそれほど遠くに感じられたらしい。