【前回の記事を読む】 「こんなに体が弱くて育つかしら?」夜中に痙攣をおこす度、妹の口にハンカチを突っ込まなくてはならない。

第一章 こんにちは赤ちゃん

コラム 「伊勢湾台風」

伊勢湾台風がもたらした死亡および行方不明者の数五千名以上と言う数値は、台風がもたらした被害としては明治時代以降この国の最大のものである。

この台風をきっかけに日本の災害対策の基本法である「災害対策基本法」が一九六一年(昭和三十六年)に制定され、国、地方自治体、市民それぞれのレベルに、災害を未然に防止し、被害の拡大を防ぎ、復旧を図る責務が求められている。

この場合の災害とは「暴風、豪雨、豪雪、洪水、高潮、地震、津波、噴火その他の異常な自然現象又は大規模な火事若しくは爆発その他」と定義され、さらに一九九九年(平成十一年)の東海村JCO臨界事故をきっかけに制定された「原子力災害対策特別措置法」がこの基本法を準用することで、地方自治体および原子力事業者に、原子力災害に対する災害防止対策、緊急時の対応策の策定を義務付けている。

原子力災害まで含めた日本の災害対策の策定のきっかけが、伊勢湾台風であった。しかし法令は整備されたものの、日本人は法令にその目的に見合った魂を入れたのであろうか。

二〇一一年(平成十三年)三月の「東日本大震災」では、二万二千名を超える死亡および行方不明者を出したが、それだけではなく、福島の原子力発電所が崩壊し、放射線被害が多くの住民の避難を余儀なくさせた。

しかし同じ高さの津波に襲われたものの、同じく太平洋に向かって建っていた女川の原子力発電所は持ちこたえた。誰も想定できなかった高さの津波が襲ったのではなく、誰かには想定できた高さの津波が襲ったのだ。

二〇二三年は「関東大震災」から百年、南海トラフ地震の被害予想も様々発表されている。更なる災害が想定される今、私たちは伊勢湾台風が彫ってくれた仏に魂を入れているであろうか。

第二章 入園

第一部 弟のわんぱく

昭和三十七年四月には、僕も幼ち園に、入園した。その時いっしょに聡も入園した。聡が満二才半、僕が四才の時である。このころ、聡は、だれかが自分の口のところに指を持ってくると、かみ付くクセがあったので、豆ブラッシーと言う異名をとっていた。

六月ごろ、先生がどうしておこったかは知らないけれど、聡をしかった。聡はしかられたのが、気に食わなかったらしく、先生が後ろを向いた時、先生のおしりに「がぶッ」とかみ付いた。先生は赤い顔になってしまった。