第二章 美しい十代

オール5の小学生時代

名古屋市中区丸田町一丁目一番地

これがアサオが子供の頃育った地だった。鶴舞公園の近く、家のすぐ前を100m道路が通っている。

戦後復興をなした日本は高度経済成長の中、街には車が行きかい。矢場町にはまだ進駐軍の白いハウスがあり、鶴舞公園の公会堂にはまだ星条旗がかかっていた。

岸政権が倒れ貧乏人は麦を食えと言い放った池田勇人が政権を握った。そんな激動の時代にアサオは名古屋の街の中央のガソリンスタンドの家の長男として我ママ一杯にスクスク育った。

板東英二が中山が空谷が投げ、森徹と江藤慎一と中が打ち、与那嶺監督の時代。権藤・権藤・雨・権藤と権藤が連投し30勝を上げ、中日球場におやじと共にアサオは通った。

T小学校の前のT公園で陽が暗くなる迄、アサオは近所の子と野球をやって遊んだ。

母親が教育ママで、塾通いをさせられ、書道、絵画、珠算、学習塾へ行くようなふりをして、家を出て、公園で遊び、時間になるとさも塾へ行って来た様なふりをして帰宅する。

その後家族全員で夕食。カレーライスを大皿3~4杯は食べ一升の米をたき、5合はアサオが食べた。

家には両親とお手伝いのみいちゃんと弟のKと妹のM子、R子の4人兄妹だった。妹は、まだ幼く、弟も5才だ、そんなアサオも九九を覚えるのに手こずり。

若くて美しい女性教師・O先生には素行が悪いと言って何時も廊下に立たされた。自己顕示欲の強いアサオは授業中、先生の質問に「ハイ、ハイ」と大声で元気よく答えていた。

そんなやんちゃな少年も4年生になると野球部に入り5年から補欠ながら対外試合へも出た。丸々と太っていたのでキャッチャーをやらされた。