「お子さんはウチで無事だよ。すごくいい子、小学二年になったよ」

オコサン? 俺にオコサン? またか。どういうことだ? 

コイチは、オコサンがチャイルド、子どもという意味だと、数時間かけて記憶を取り戻していた。子どもの背が伸びることも思い出していた。

だからといって子どもに、その後があるのかどうかに思いをはせることは頭痛の原因でしかなかった。ベイベは、歩き始めたってことは、子どもになるのか?

「全部、聞いたよ。混乱してるだろうが心配しなくていい。さあ、一緒に帰ろう」

コイチは男を眺めいった。この男の言葉も聞きとることができる。この男は俺の言葉を理解するのか。

「イッショニ、カエロウ?」

ローザとも男とも領事館以来、会っていない。潮が連れ去ったのかと思うほど消えてしまった。

食堂から眩しい通りに出た。

街の雑踏に混じる、人間が発する声。耳馴染みが無い。店の表に書いてある文字。模様のようにしか見えない。

人ごみの中、所長はタクシーに腕をあげた。

「エアポート、プリーズ」

タクシーは走り出した。

電柱が立ち並び、様々なケーブルや電気の線が街を覆う。電波を中継する機器も多数、設置されている。なぜ、その機器が自分に認識できるのか。

コイチは赤茶色の瞳をした、小さかった人間を思った。子どもは存在する場所を選べない。茫洋たる大自然の中で生まれ育った天才はどうやって人生を送るんだろうか、口の中だけで彼らの名前を呼んでみる。存在する場所を選べないのは、子どもだけなんだろうか?

「趣味のワイヤレス技術が」

所長が布製の袋を見せた。コイチの航空券とシャツと長ズボンが入っている。すり減った生地ではない。

「アメリカ人の技師と知り合いになったきっかけでね、本当に、こんなことになって申し訳ない」

雇用主だという男の真摯な態度に、コイチは少なからず胸を打たれた。耳に馴染んだ言葉がいっきに体の中に広がり始めた。言葉と、その意味は思い出せたが、自分はどんな人間なのか。カトウコウイチサンと呼ばれた。

「戻る場所が私にはあるんですね」

俺には何か、大切な存在があるはずだ。

次回更新は11月1日(土)、20時の予定です。

 

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