「ローザ」

彼女が自分の胸を指し繰り返す。猿を指し「ミカエル」と声を発する。

俺の胸を指し、首を傾ける。名前を聞いているんだろう。コイチ、多分、それが自分の名前。でもわからない。

悲しそうな表情をしていたのかもしれない。ローザが手のひらを上にしてついて来るように、とジェスチャーした。ミカエルが当たり前のようにコイチの肩に乗る。ギョッとしたが人馴れしているようでコイチの動揺など意に介さない。

ローザはマンゴーが入った籠を持ち上げた。その籠を代わりに運ぶ、とコイチは大げさにジェスチャーした。ローザは人懐こく笑顔で応える。抱きしめたい衝動が湧き上がったが抑えた。同時に、自分の中にある特別な存在、大切な何かを思い出すのは後でも構わない、と本能がささやく。

ジャングルを数百メートル掻き分け進んだ海辺にあばら家があった。隙間だらけで屋根の高さは身長ほどしかない。彼女はここで待って、と示し、板きれの隙間から中に入った。

話す声がはっきり聞こえるが何を言っているのか、わからない。そのうち別の隙間から手招きされた。そこにいる中年女性は「ママ」、もう一人は「スィスタ」、それだけ聞き取ることができた。

ママって? 聞いた言葉の気がする。

小屋の中には小さな人間と、もっと小さな、人間らしきものがいる。立っている方の小さな人間は、自分の胸を指しカルロ、と言ったがコイチは発音できない。

ローザは、うごめく小さな可愛らしい人間のようなものを抱き上げ「マイ ベイベ、ガブリエル」と言ったように聞こえた。

女たちは見知らぬ俺に恐怖心を持っていないらしい。

とにかく彼らの役に立つ人間だと思われたかった。水汲みに、と、目の前にあるバケツを持ち、あの滝の方向を指し示した。ローザがついていく、と腕に触れた。人工ではない甘い匂いが立ちのぼりコイチは思わずバケツを体の前で抱えた。

最初の夜のとばりが下りはじめた。暗いがランプは滅多なことでは使えないようだ。カルロがコイチの手を取り砂浜に連れ出した。

満月が照らす世界は驚くほど明るい。

記憶など戻らなくてもいい、と思う。

次回更新は10月28日(火)、20時の予定です。

 

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