大正二年或(あるい)は三年の頃だったと思う。驪城君は、大谷光瑞(こうずい)氏の二楽荘の中学校に勤めていた。

私はその頃今宮中学校に居たが、毎月幾度となく、六甲山の上から町に下りて来る彼を迎えることがどんなに楽しいことであったか。

その頃梅田新道にむさしという牛肉屋があったが、驪城君が六甲山へ帰るのと私が今宮から箕面(みのお)電車に乗って岡町在の熊野田へ帰るのと、その別れを惜しむ夕飯を、よくその武蔵で食べたものだ。

梅の間で会ったり竹の間で会ったりしたあの武蔵の座敷を今も思い出す。――その頃二人の交友の中に加わってくれた親友の一人として折口信夫君があった。

慶應大学国文学主任教授として、また万葉研究の権威として知られている折口君は、その頃今宮中学の一教師として四十圓(えん)の月給を貰っていたのだ。

その翌年だったと思う。折口君が職を辞して上京したので、その後任として今宮中学に来たのが驪城君である。私は一年間驪城君と同勤であったが、翌年私も今宮中学を辞した。そしてやがて東京に上った。驪城君はそれ以来十五年間今宮中学に勤めていた訳である。

驪城君は青年時代から立派な文章を書いた。既に多くの作品を新聞雑誌に発表していた。

もし二楽荘中学に来ずに、また今宮中学校に来ずに、東京で文筆生活を続けていたら、君が亡くなった今日どうしても「驪城卓爾全集」を出さなければならぬ程に多くの著作があったことと思う。

しかし後半生の驪城君は、著作よりも教育を楽しんでいた。あの頃自分達には予期しなかった彼の「今宮中学校教諭」が、その後半生の最大の事業になろうとは!

無論教育の仕事は尊い。そして驪城君の教え子は非常に驪城君を敬愛(あいぎょう)していた。

青年時代からの友人としての私には、驪城君を一作家として考えることに馴れていたが、しかし十五年間の教師の生活は、間違いもなく驪城君が立派な教育者であったことを語るであろう。

(五月九日、病床にて――口述筆記)

石丸梧平

 

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