長屋の井戸端でお粂ばあさんが洗濯をしている。ように、太平には見えた。
お粂ばあさんは一人世帯だから、洗い物も洗濯物もそうは出ない。だけど井戸端ほど世間に目を光らせられる場所はないから、しょっ中ここに陣取っている。
今、洗濯板の上でこねくり回しているのはそのための着物だ。もう何年も洗って干してを繰り返した結果、元の形も柄も良く分からなくなっている。
「そろそろ代え時かね」
そうつぶやいた時に獲物が飛び込んできた。
「太平しゃん。五月ちゃんならおらんで」
お粂ばあさんの顔が輝き、太平の顔がしょぼんとなる。昼と夕の間なら中抜けで戻っているのでは、そう期待していたのだ。
「あ、これ、スズキです。長屋の皆さんでどうぞ。軽く塩焼きにしてますから、食べる前にもう一度炙(あぶ)ってください。ええ、このまま煮付けにしてもおいしいですよ」
「ごっつぉしゃん。後で皆に配っとくわ」
太平が石動の家に入るのを見届けて、お粂ばあさんも布の塊を持ち上げる。
「今日の日和(ひよ)りなら裏の障子も開けてるやろ」
壁越しよりは、庭で洗濯物を干すついでの方が良く聞こえるはずだ。
「よいところにお越しくださいました。少し形を変えたいと思ってましたの」枕元にきた太平に百合が微笑む。
体を起こす。たったそれだけの事が、今日は億劫(おっくう)でならなかったのだ。
「あ、でしたらですね」
太平が百合の体ごと布団の向きを変えて、頭の側を壁にくっつける。そして部屋の隅に畳んであった布団を丸めて、起こした百合の背に当てる。
「あら、とても楽ですわ」
「でしょう。それにですね、この形だとお庭もお台所もよく見えます。ええ、一獲千金と言うやつです」
太平が得意気に胸を張る。
「一石二鳥、ではなくて」
戸惑い気味の百合の言葉に、太平が少し考え込む。
「はい、それでもけっこうです。でも、私は鳥に石をぶつけたくはありません。ええ、私としては一獲千金の方をおすすめします」
「おやまあ」
間違っている事に間違いはないのに、何だか一獲千金の方が好ましく思えてきた。
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