【前回の記事を読む】次々と変わるパートナーと楽しそうにステップを踏む夫。「盆踊りが精いっぱいだったのに」とぼやいていたのが噓のよう

第3章 アメリカ生活破綻の兆し

社交ダンスと私達のアルゼンチンタンゴ―1993年頃

そうこうしているうちに、当時50年以上の歴史のある社交クラブ「バイセンテクラブ」に入らないかとカズダン先生が誘ってくださり、審査にも無事パスして会員になることができました。

「バイセンテクラブ」は、夏にはバーベキュー、秋にはハロウィーン、クリスマスといろいろなテーマで思い思いに着飾って、ゴルフのクラブハウスなどで食事をした後、メンバー同士のダンスを楽しむというものです。

弁護士、医者、先生やサラリーマンなど職業も様々ですが、バークレー大学出身の方々が中心で、中には夫婦で合わせて9つも博士号を持つというカップルもいました。クラブ主催のダンスレッスンも週一回ありました。

保夫さんの堪能な英語と地元バンク・オブ・アメリカ勤務というステータスのおかげで、バイセンテクラブに無理なく溶け込めたのだと思います。

ある時、バイセンテクラブの中の、私達とほぼ同年齢のアルゼンチンタンゴに夢中な5カップルで、一緒にブエノスアイレスまで旅し、レッスンを受けながらタンゴを楽しみ、観光もするという機会に恵まれました。

ダンスホールでのアルゼンチンの庶民のタンゴは、日本でイメージするショーダンスのステップとは大違いです。

そんなダンスをダンスフロアでしようものなら、誰かにぶつかり、誰かを蹴飛ばし、誰かを傷つけてしまう可能性だってあります。また、込み入ったステップをこれ見よがしに得意げに踏もうものなら、現地の人から、かえってひんしゅくをかってしまいます。もっとずっと静かでおとなしいものです。

それを見た保夫さんは「なんだ、そんな簡単でいいのか」とずいぶん気持ちが楽になったようです。それでも、「自分のしていることが信じられない」と言いながら、レッスンを受け、ナイトクラブで仲間と一緒に踊り、観光もして、私にとっても初めての“外国人”との旅を楽しみました。

腕を組み、手をつなぎ、音楽に身をゆだねるというタンゴが、私の異文化に対するメンタル・ブロックを取り払ってくれました。動きやすければ着飾る必要もないというダンスの手軽さが、敷居を低くしてくれたとも思います。こうして、タンゴとのお付き合いは、かれこれ10年近く続きました。