世阿弥は突然義満に向かって大声を上げ、涙を流した。義満は驚いて眉を大きく引き上げた。誰かに大声で怒鳴られたのは生まれて初めての経験だった。そして、只の一度も心を傷つけられた事が無い、というのは紛れも無い事実だった。

将軍に生まれついた義満は、恐らく死ぬ迄誰からも侮辱される事など無いだろう。「じゃあ、何をしたら良いのじゃ。何をして欲しい、言ってみよ」義満は、興奮した世阿弥を宥める様に優しい声で聞いた。

「只、友であると、いつ迄も友であると、誓って下さい」

「よしよし、わしはいつ迄もそちの友だと誓う」

世阿弥は落ち着きを取り戻し、どうして義満に怒鳴る事が出来たのか、不思議に思った。同じ日の夜、三条公忠は日記にこう書き付けた。

「祇園祭りを見物した。例の少年芸人が将軍と同席し、同じ器を使っていた。能など、乞食(こつじき)所行、この様な輩を賞玩するとは奇怪である。将軍に諂(おもね)る大名らは競ってこの少年に贈り物を与え、その金額たるや莫大なものになるらしい。何と浅ましい時代と成った事だろう」

第二章 変化(一三七九年)

義満が室町第の建設や公家との社交生活に現を抜かしている間、管領の細川頼之 が政務を万事取り仕切り、将軍同様の権限を行使していた。

面白く無い有力守護達は数回に亘り細川頼之を権力の座から引き摺り下ろそうと画策したが、いずれも失敗に終わっていた。しかし執拗な守護達の試みが遂に成功する時が来た。

一三七八年十二月十四日、義満は反乱軍鎮圧の為、東寺に陣を構えた。

ここに義満の弟で十四歳の満詮(みつあきら)が、緋縅(ひおどし)の鎧姿も凛々しく数百人の兵を従えて参加し、その美男振りが評判となった。兄弟の軍は一週間に亘って東寺に待機していたが、結局戦わずに解散した。

この「反乱」というのは実は前管領の斯波義将(しばよしゆき)が細川頼之を追い落とす為に仕掛けた複雑なトリックの一端であった。

 

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