【前回記事を読む】なぜ理髪店の回転灯は赤・白・青? その答えは庶民を救った「床屋医者」の歴史にあった

第三話 ルネサンスの光の中で
―科学的医療の芽生え―

神は助けてくれなかった

カトリック教会の支配下で教条主義が横行していた西欧の「中世の暗黒」から脱出するきっかけとなった事件が、いくつか指摘されています。

そのひとつは、14世紀中葉にヨーロッパで大流行したペストでした。発病すると皮膚に黒色の出血斑が現れ、わずか数日で死亡することから「黒死病」と恐れられ、当時の人口の30 ~60%もが失われたと推定されています。 

聖職者の中には信仰の薄い者への神から下された懲罰だとした者もいましたが、患者に接触すれば、聖職者でもすぐに感染して死亡したのです。身分の高い人たちでも発病すれば助かりません。高位の神父の祈祷もありがたい聖水も全く役には立ちませんでした。これではカトリック教会への信頼感が薄れるのも当然でしょう。

神は守ってもくれなかった

1453年、それまで何度もオスマン帝国の猛攻をはね返して「難攻不落」を誇っていた東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルが陥落しました。

人びとは、皇帝の栄光とここに総本山を置く東方正教会の総主教の祈りとによって、神の力に守られた聖なる都が、異教徒の軍隊に攻め滅ぼされるはずはあり得ないと、信じ切っていたのです。

ところが実は、それまでの攻撃をはね返していたのは、目に見えない神の力ではなく、町を取り囲む三重の堅固な城壁で、精強なイスラム騎兵たちもこれを乗り越えることはできなかったからだったのです。

しかしこの年、10万を超える大軍で町を包囲したメフメト2世直率(ちょくそつ)のオスマン帝国軍はそれまでだれも見たことがない巨大な大砲と大量の火薬を用意していました。ハンガリー人の技術者が製造したこの巨砲は550 ~600kgの石の弾丸を打ち出すことができたそうです。

さしもの城壁も、こうした石の弾丸あるいは城壁の下に掘ったトンネルに仕掛けられた大量の火薬の爆発力には耐えられません。

城内に乱入したイスラム兵士との戦闘で皇帝は戦死しました。正教会の総本山であった大聖堂も、イスラム教のモスクに変えられてしまいました。お偉い皇帝の権威も総主教の祈りも、全く役には立たなかったのです。