緒川城(知多郡東浦町)・刈谷城(刈谷市)を拠点とする水野氏は織田、松平、今川と大きな勢力に囲まれていた。忠政は織田氏に協力しつつ、娘の於大をはじめ、四人ないし五人の娘1を松平側へ嫁がせて領地を守ろうとしていた。
遵通が三河鷲塚へ戻り、再び松平家への奉公を始める時期は、松平清康が二十五歳という短命で亡くなる天文四年(一五三五年)の少し前と考えられる。
1 松平広忠の妻於大(家康の母)、松平家広の妻於丈、石川清兼の妻妙春尼、片山遵通の妻於亀、この他に東条吉良家臣・赤羽城主高橋政信の妻も水野忠政の娘とする説がある。片山家系図では同家へ嫁入りした女性が、身分の高い武将の養女になり嫁入りする場合は、実の父親名を記述しているが、於亀については忠政を父と記されている。
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