【前回記事を読む】「なんだか血の臭いがするね。その分厚い黒いコートはかなりの血を吸ってるんだろうね」老婆が声をかけたのは、凄腕の…

一.魔女汁

「あの店の店員はただ一人。そいつがとんでもない変わり者でね、カマキリへの変身願望が強いんだ。だから一人より一匹の方がしっくりくるのさ。カンフーの技で蟷螂拳(とうろうけん)というのを知ってるだろう。それの達人だよ。

ところが技を究めた結果、本物のカマキリになり切ってしまった。ただし、カマキリはカマキリでも、虫人間のカマキリとか言ってる。まあ、何を信じようが本人の勝手だから好きにすればいい。

愛想が悪いけど信用はできる男だ。どの組織にも属してないよ。あっ、そうだ。大事なことがある。あいつはカマキリ店長と呼ばれると機嫌がよくなるからね、覚えときな」

かくして二人は店の前で立ち止まった。老婆はゆっくり反転し、挨拶代わりに片手を上げてからゲートの方に向かい、すぐに闇と同化して消えた。それと同時にイチコの顔は苦痛に歪む。よほどのことがない限り他人には見せない表情だ。

入り口のドアの前に立つと、足元にショルダーバッグがドスンと落ちた。見た目よりはるかに重いのかもしれない。

「これが店? ただの丸太小屋じゃないか。窓もない。黒い鉄のドアには赤錆もある」

イチコは毒づいた。たしかに重傷を負っている身では開けるのがひと苦労のようだ。

ドアには金色の横文字で『一匹ぼっち』と書かれている。その下には二つの札がぶら下がっていて、一つは『営業中』、もう一つは『貧乏人お断り』とあった。ドアのすぐ上には、古びた傘付きの裸電球が突き出ており、それらの文字を照らしている。

灯りによってイチコの顔が闇に白く浮き上がる。髪型はボブで鼻も唇も少女のようにかわいい。これが本物の殺し屋であろうか。折しも、ブーンと音がして彼女の顔付近を羽虫が飛んだ。閉じ気味だった切れ長の目が大きく見開く。鋭い目つきは殺し屋のそれだ。しかし魔性の魅力をたたえてもいた。

「なんだ、コガネムシか」

一瞬にしろ、弾丸かと思ったイチコは少し腹が立ち、電球周辺を飛び回る虫を睨んだ。まさかその眼光におじけづいたわけではなかろうが、虫は急に進路を変えて鉄のドアを目指して飛んだ。意外なくらいに大きめなゴツンという音がした。

虫はドアにはじき返されたが、墜落せずに舞い上がると、また電球周辺を飛び回っている。

「こいつ、バカか」

イチコはもう虫に興味は失せたようで、ドアノブを回そうと手を伸ばした。しかし脇腹に手をあて顔をしかめる。するとノブには触れてもないのにドアがギギーッと音を立てて開いた。