チャンスとばかりに虫はドアのすき間から素速く店内に飛び込み、それと入れ替わるように、不気味で暗い感じの男の顔がぬっと現われた。白のハッピ姿で白の和帽子をかぶっている。胸には名札があり、『店長』とだけ書かれてあった。

「ノックされました?」

不機嫌そうな物言いである。

「私じゃないわ。バカな虫がぶつかっただけよ」

「さようですか。何か御用で?」

「私は客よ――」

するとモノを見るような店長の目線が、イチコの頭頂から足先までを何往復かした。露骨に客の見定めをしている。しかし足元のショルダーバッグを凝視したところで態度が変わり、会釈をしてわずかに身を引いた。

どうぞお入りくださいという意味であろう。その寡黙さが彼女に不思議な安心感を与えたようだ。イチコが入店すると、店長は長い腕を伸ばし『営業中』の札を反転させ『準備中』としてから、ドアを閉めしっかりと内鍵をかけた。

イチコと並ぶと店長は異常に背が高い。もともと長身なのに加え、高下駄を履いている。顔は小顔で逆三角形に近い。口は小さく唇は薄い。目は切れ長で瞳が小さい。顔もそうだが、ゆらりとしていながらどこにも隙がない全体の感じは、カマキリに相通じている。

店内は奥行きが深く、木製のカウンターが長く伸びていた。椅子はその中央部分にただ一つしかない。老婆の言った通りだ。イチコは迷わず席を目指し、店長は別れて調理場に入った。

肘掛けのない椅子はシンプルな木製だった。壁や床はこれまた木製だが、それらは墨色に表面処理されており、おまけに店の照明は暗い。黒い傘付きの裸電球が天井からいくつか垂れているだけだ。

そのせいか、カウンターと椅子が白く浮き上がったように見える。イチコは足元の四角い籐製の荷物置きにバッグを投げ込むと、腹部をかばうようにゆっくりした動きで腰をかけた。

「おしぼりです」

店長がつけ台におしぼりを置いた。広い厨房には他に人気がなく静かである。たしかに客も一人なら店員も一人だ。

イチコは熱いおしぼりを手に取り丁寧に顔をぬぐった。生き返った心地がする。同時に全身の痛みが極度の緊張から解放され、激痛となって全身を駆け巡った。

 

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