プロローグ
丸い月が煌々と照る夜、無名の昆虫学者が開け放たれた屋敷の畳の上でひっそり息を引き取った。老衰による孤独死である。
虫の知らせでもあったのか、その数日前、彼は終活のような行動をとっていた。せっかく書き上げた論文を庭で燃やし、穴を掘って埋めたのである。ちなみに論文のタイトルは『虫の多様性』であった。
表紙がめくれ上がるように燃えて、次に現われたページには『虫人間』『人間社会』『潜む』『調和』とかの文字が多くあった。しかし速読の達人でなければ解読は不可能に近く、分厚い紙の束はあっという間に火だるまとなってしまった。
学者は過去を懐かしむような面持ちでじっと凝視していたが、最後はおのれを納得させるかのように何度もうなずいたのだった。
ところで、彼の死を孤独死と断言したのは間違いかもしれない。というのも、遺体を取り囲むように畳の上に無数の虫たちが集い、讃美歌よろしく美しい声で夜通し鳴いていたからである
一.魔女汁
とある町の繁華街からかなり外れたところに、めったに人が寄り付かない寂れた通りがあった。かつての繁栄を物語るかのように、入り口には『玉虫通り』という大きなネオンが付いたアーチ状のゲートもある。しかしネオンは故障しかけて絶えず明滅を繰り返している状態だ。
折しも、ゲートの下で一人の若い女が立ち止まり、通りの奥に向けじっと目を凝らしていた。黒木イチコという凄腕の殺し屋だ。動きが少なく置物のようでもある。ところが急に肩がぴくりと動いた。背後に人の気配を感じたようだ。