「何をするんだい! ひどいじゃないか。人が親切で教えてやったのに」

老婆が怒るのは当然である。

「ごめんね。これでも感謝のしるしなの。私には心とは反対の行動をとる癖があるのよ。傷が痛むから、いまはそれを制御する余裕がなくてさ」

イチコは笑った。悪意はないような爽やかな笑いだ。しかしとつぜん顔をしかめると手を脇腹にあてた。

「四の五の言わずにさっさと店に入って魔女汁を飲むことだね」

老婆は鼻血を袖でぬぐうと先導するように歩き始めた。

「この辺りだって以前は賑やかだったんだよ。でもいまじゃこのざまだ。栄枯盛衰は世の常なんだろうけど、それにしてもひどい。スナックもキャバレーもカジノも全部が廃屋になっちまった」

「静かでいいじゃないの。こういう寂れた場所は嫌いじゃないよ」

「ところであの店は『一匹ぼっち』っていうんだよ。客席はカウンター席がただ一つ。たった一人でもう満席さ、面白いだろう」

「そんなので店の経営が成り立つかしら」

「それが成り立っているから世の中も捨てたもんじゃないね。わざわざそういうところに惹かれる輩がいるもんだ。たとえばお前さん。他の客がいないのは安心なんだろう。敵が紛れ込む恐れがなくて済むからね」

「客が少ないと気分が落ち着く、ただそれだけ。でもどうして一匹なの? 一人ぼっちなら分かる気はするけど」

 

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