【前回記事を読む】給料2か月分する革靴を「2回に分けて払うてくれたらええ」とニコニコ売るおじさん。戦後、パン一つも有り難い1948年に…

第2章 戦時中から戦後の生活

5 高田薬品時代

復員帰りの伊東さんをリーダーに、スロー、スロー、クイック、クイック、スローと、男女合わせて十数人の人たちが居て、レッスンに余念がない。しばらくその様子を見ていると、「やりますか?」と伊東さんに声をかけられた。

牧田さんと一緒に、「お願いします」とは言ったものの、私はおっかなびっくりだった。伊東さんに合わせて足を運ぶのだけれど、他人(ひと)の足を踏んだり、つまずいたりでなかなか思うようにはいかなかった。

レッスンが終わるころ、陽が西に沈んで辺りには宵やみが迫り、屋上にさわやかな風が流れて、一日の疲れを心地よくいやしてくれた。

ガヤガヤとにぎやかに階段を下りて行く人たちの後に付いて、私はレッスンの様子を思い返していた。戦闘帽こそかぶっていないけれど、ダンスをするにはおよそ不似合いな、くたびれた復員服に兵隊のドタ靴をはいて、大真面目でステップを踏んでいた伊東さんの、一生懸命な姿になぜか感動していた私だった。

次の日から毎日五時になるのが待ち遠しかった。そしていつの間にかレコードに合わせて屋上のコンクリートの床で、トロットやタンゴ、ワルツなどを踊れるようになっていた。

毎日毎日が楽しかった。どこそこでダンスパーティーがあるという日は、仕事が終わると精一杯のおしゃれをして、レッスンの仲間たちと一緒に出かけた。その中に背の高いスマートな人がいて、その優しそうな風ぼうに私は淡い憧(あこが)れを抱くようになっていた。

ダイヤライトの光が渦巻き、滑りのいいフロアでバンドのリズムに乗って踊るうちに、たまたま憧(あこが)れの人とパートナーになった時などは胸がドキドキと高鳴り、「このひとときが永遠に続けばいいのに」などと思ったりした。

 ──ある日、課の男の人たちが会議で全員席を外し、雑然と書類などが積み重ねられたそれぞれの机に、電気スタンドの明かりばかりが柔らかく降り注ぐ中で、私はたった一人、仕事の手を休めてぼんやり考え事をしていた。「これでよかったのだろうか──」私は自分に問いかけていた。

いつのころからか学校の先生になりたいと思っていた私だったが、敗戦と共に父が失業し、家族五人生き延びるのがやっとの暮らしの中で、上の学校へ行くなどとても考えられないことだった。

いきおい年来の望みはかなえられないものと諦(あきら)めていたところ、耳よりな話が伝わってきた。給料が低いので先生に成り手がなくて、女学校卒でも小学校の代用教員として採用されるというのである。