【前回の記事を読む】彼は私をベッドに押し倒し、「いいんだよね?」と聞いた。頷くと、次のキスはもう少し深く求められ…
人生の切り売り
六 完結
「神野さん、大丈夫?」
あなたの名前が出てこないから、あまり大丈夫とは言えない。
三十路を過ぎてなおキラキラ女子感漂う彼女は、私と縁のない一同級生に見えた。こうなると人生を売ったせいで覚えていないのか、単純に記憶していないだけなのか、定かではない。
「妹と元彼がくっついちゃったんだもんね。そりゃ複雑だよね」
「……何のことですか?」 「またまた。忘れたとは言わせないよ。『初恋なんてなかった』って、あれ橘のことでしょう?」
そのタイトルは確かに私が書いたものだ。
「初デートの邪魔しちゃったのは申し訳なかったよ。その後もみんな橘のこと冷やかして……あれのせいで神野さんが拗らせたのか、もともと拗らせてたからああなったのかは分からないけどさ」
どうやら売ってしまった恋の話をしているらしい。完全に記憶から抜け落ちている。
「終わったことだからネタにしたんです。あんな幸せそうなバカップル、祝福する以外ないでしょう」
「さすが神野さん。相変わらずねじくれてる」
その笑顔を見る限り、冗談と通じることが大前提の悪口だった。
「二人が結婚するって聞いて、緊急招集が掛からないのが逆に心配だったけど、あれだけ晒せるなら大丈夫ってことだよね」
「はい?」
「所詮は初恋未満だもんな」
知ったような顔をして頷く。ただ、彼女の言葉には「本当に知っているのかもしれない」と思わせる明瞭さがあった。
「で、今はどんな小説書いてるの?」
「興味あります?」更に深掘りされそうな危機感から、少しとげのある言い方をしてしまった。すると今度は明らかにしゅんとした表情を見せる。
「いや、もちろん読んでくれてるのは嬉しいんですけど」とっさに弁解を口にしていた。
言動から察するに、橘くんやその周辺とつるんでいたキラキラ女子の一人だろう。私と一対一で小説の話ができるような読書家が、その中にいたとは知らなかった。
「人生の切り売りを見せつけられるのってどうなのかな、というのはあります。妹の受け入れ方は、正直普通じゃないと思っているので」
「ああ、妹ちゃん懐が広いもんね。でも、私も親友が自分のことをネタにしてくれるのは面白いよ。事実を知ってるからこその『こう来たか!』も、ちょっとした優越感というか」
「……しんゆう?」
「おっと、自称親友だったか。売れてから全然連絡寄越さなくなったし、このいきなり敬語かましてくる感じは、何?」
この口ぶりも冗談めかして拗ねているような―。
「ちょっと懐かしくはあるか」
「え?」
「初恋未満だった頃の神野さんってちょうどこんな感じだったし、やっぱりこの結婚は思うところがあった感じ?」「あの」「何?」
ここまで親しげに絡まれて名前を聞くわけにはいかない。小説の内容からも離れた方が賢明だろう。