【前回の記事を読む】一日八十キロ! わずか六日で京都から江戸へ――。その驚異の飛脚を生んだのは、意外な“食事”だった
一、 先付
私が飲んだ最も旨いビールは2つある。まずはある関取に教えて貰った飲み方だ。父は好角家だったから、ごくたまに相撲部屋を見学することがあった。
早朝から続く激しく長い稽古の後、汗を流したざんばら頭の関取衆が、湯気を立てる鍋を囲み、丼から何か飲んでいる。恐る恐る聞いてみると、
「なあに、俺達は通常の量のビールじゃあ足りないんですよ。冷やしている時間がないんで、丼にかち割り氷とビールをぶち込んで飲むんですぜ。
このかち割りビールに、うちのちゃんこは合うんです。大横綱の直伝ですからな。先ず、鶏ガラで二時間、出汁を取ります。あく抜きしたごぼうを入れまして、鶏肉ともつを投入。
お次はタマネギ、ニンジン、きのこ、下茹でした大根も入れましょう。砂糖と醤油で煮込みます。最後に、にら、ホウレン草、油揚げ、こんにゃくを入れ、酒で味を整えて出来上がりですわ。
灰汁をまめに取り続けますから、鍋のスープが透き通っているのが、うちの部屋の自慢なんです。さ、さ、お熱い内にお召し上がりください」
後年、会社の野球大会があり、炎天下、数試合を勝ち抜いた我がチームが見事優勝した。
皆でグラウンドで車座になり、そのかち割りビールを飲んだが、滑らかな味わいで、薄まっているから幾らでも飲めるのだ。
勝利とビールの味が相まって、気心の知れた仲間達と笑い合い、極楽という気がした。
そして、両親と進路で揉めながらも、私は文科の大学を卒業し、事務職に就いた。小さな商事会社で、安い給与の割には激務、居残りのことも多かった。
ある日、徹夜明けで仕事を終わらせるともう昼過ぎで、初夏の日差しは目を刺した。
「ご苦労さん、今日はお帰りよ」
と言われ、何も食べていないことに気付いた。人生初の給与を貰った日でもあり、奮発するかと、些か高そうな小料理屋に入った。黒板の品書きには、
銚子産 鯵の叩き なめろう
鰯煮付け
鯖味噌煮
とあり、私は迷わず鯵の叩きと生ビールを頼んだ。息もつかずにビールを飲むと、生まれて初めて社会人になった気がした。さばいたばかりの新鮮な鯵がピカピカに光っていた。