小忠太がここまで話した時、晋作が顔を真っ赤にして言った。
「父上、秀頼を守る立場の輝元殿が、秀頼を守る家康公と何故決戦することになるのか、私にはさっぱり分かりません」
小忠太は晋作のこの言葉を受けて「今日はここまでにしよう。晋作の疑問には明日答えてあげよう」と言って二日目の講義を終えた。時間は予定の五十分を超えていた。
三日目の午前八時。小忠太の部屋で講義が始まった。晋作は小忠太に向き合って正座している。
「これから話すことは、わしが推理した関ヶ原決戦の本筋だが」
こう前置きをして、小忠太は話し始めた。
家康は豊臣側で最大の武力を持つ武将を引き連れて大坂城を出発し、東北までの陣中で毎晩のように軍議を開いては結束を図った。東北に行き着くまでの途中には家康の居城である江戸がある。
江戸は勿論今の江戸とは違う。もっと小規模な城下町だった。家康は江戸まで征伐軍が行くことになった場合は、圧倒的な軍事力の大きさと強さを見せつけようと考えていた。江戸は嫡男の秀忠が領主として徳川領を支配していた。
一方情報戦に長けた家康は、自分が大坂城を留守にした後、石田三成ら反家康側の大名が決起する動きをつぶさに把握していた。そしてこの動きは家康の巨大な謀略の壺に嵌(は)まった。
石田三成は、家康を大将として頂く福島正則、加藤清正、黒田長政らの大名の留守中を襲って正妻を人質に取るという策に出た。正妻を人質に取れば亭主が反家康側につくと見てのことだったがこれは最悪の愚策だった。
黒田長政の正妻でキリシタンのガラシャは、人質を拒否して城内で自決した。この一報ほど家康に同行する大名達の心を揺さぶったものはなかった。皆石田三成憎しで一致した。家康はこれで秀吉子飼いの武闘派大名の心をしっかりと掴んだ。
こうした石田三成ら反家康勢力が家康対抗軍の大将に担ぎ上げたのが、毛利輝元だった。
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