Nは、そんな僕の中途半端な行動に対しては、むしろ批判的で、最初の頃は問題意識の持ち方の違いとでも言ったらいいのだろうか、出会ってすぐに意気投合したが、その後はある程度の距離を置いた形で接していた。

学校での進路面接指導に呼ばれた彼の母親が、担任教師から、「S高の横沢とはあまりつきあわぬ方がよい」という風な事を言われたと、当時、僕の前で苦笑して語っていたくらいであるのだから。

Nは父親を早くに亡くし、リヤカーを引いて、鉄屑の様なものを集める事を生活の糧にしていた彼の母親と、笑顔が堪らなく美しく、如何にも理知的で聡明そうな姉さんとの三人きりの生活であった。

そんな厳しさの中で育ってきた当時の彼の目からしてみれば、おそらく自己矛盾を含んだだけの全共闘運動に対する僕の青臭い共鳴ぶりが、彼自身が抱えたテーマである部落解放運動の重みに比べれば、甘ったれて子ども染みたものとしか映らなかったのは当然の事であった。

むろん全共闘運動の理念の中にも、エリートとしての「自己否定」と言う、強烈な反差別意識があった事だけは確かであるが。

高校卒業後、Nは経済的事情で大学に進まず、一旦、学資を稼ぐため大阪に出て働いていた。その彼が政治的な学生運動に積極的に加わる様になったきっかけのひとつが、僕が東京からの帰省の時、いつも途中下車して立ち寄った、彼の三畳下宿での、二人の熱き政治的語らいの中にあった事は、これはもう確かであったと思う。

 

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