【前回の記事を読む】京都市の北西にある仁和寺の桜。春は特にいつも多くの観光客で賑わっているが、その日は何故かいつもより人が少なく……
大学時代のサークル活動
御所では、うっそうと茂る木立の中で蚊に噛まれながら、 8 分音符や16分音符のタンギングやロングトーンの練習をしたものです。
京都は盆地なので夏は蒸し暑く無風状態の中、蚊に噛まれた足を掻きながら16拍のロングトーンを吹いている時は、酸欠で死ぬんじゃないかと思ったものです。
みんなで大阪や神戸に足を延ばして、他の大学の演奏を聞きに行くこともありました。その年、全国の大学吹奏楽コンテストで 1 位に輝いた関西学院大学の『カルメン』は圧巻の出来で感動しました。
私達の吹奏楽部は 1 年の内にサマー・コンサートと冬に定期演奏会を行い、その合間を縫って野球の応援に駆けつけました。
応援団の雰囲気はとても変わっていて、筋骨隆々とした若者達が羽織袴を着て下駄を履き、観客の手拍子に合わせて団扇を振り、試合の前にはお互いにエールを交換し合うのでした。
2年生の時、我が大学の野球部が関西リーグで優勝し、全国大学野球選手権大会に出場することになりました。
私達応援団吹奏楽部も応援のために東京の神宮球場に駆けつけました。野球部は 1 回戦を勝ち、 2 回戦に進みました。
対戦相手は出場校の中でも 1 、2 を争う強豪校の東海大学で、後のスタープレイヤーで現巨人軍の監督を務める原辰徳を擁していました。
彼はすでにスター性を十分に持ち合わせていて、私達が羨望のためにどんなに野次っても全く気にする様子はなく、爽やかに笑っていました。
「こういう人を真のスターと言うのだ」と直感しました。私達の熱狂的な応援にも拘わらず、我が野球部は敗退を喫しました。
その後、光栄にも私は、京都にある 5 つの大学の合同演奏会に出場する機会に恵まれました。その時はドボルザークの『交響曲第 8 番』やスッペ作の『詩人と農夫』等を演奏しました。青春時代の良い思い出です。
2年間吹奏楽部で活動しましたが、忙しすぎて専門の勉強ができないので、悩みましたが、応援団をやめました。
その後、英米文学研究会というサークルに参加して、スタインベックの作品を沢山読みました。この時のスタインベックとの出会いが20年後にカリフォルニアのモンタレーにある国立スタインベックセンターに私を連れて行ってくれたのです。
私は結局、良い人(good woman)にはなりましたが、クラリネットの名手、ベニー・グッドマン(Goodman)にはなれませんでした。
残念です。そう思いません?