はじめに
京都で過ごした大学生活の4年間を除けば、私は人生の大半を広島県北部の山間地域で暮らしました。大学では、英語と国語の教免を取得して近隣の中学校で36年間教えました。
家族、同僚、生徒に支えられた教員生活でしたが、英語を介して世界の人々や若者達と出会うこともできました。それは、田舎に暮らしながら、かれらを通してより広い世界を垣間見ることのできた幸運な体験でした。
これから英語を学ぼうとする人達や教師を目指そうとする人達にもそんな幸運な体験をしてほしいと願います。
そして、幼い私の孫達には祖母(私)が、どんな人達と出会い、何を考え、どんな風に生きたのかを知ってもらいたいと願いこのエッセイを書きました。
コロナパンデミックが始まった時、生来丈夫でない私が孫達に私の体験を伝える機会を失くすかもしれないと慌てたからです。
心が折れそうになることの多い世界でも、「人」との出会いは自分を強く豊かにしてくれる、そんな「出会い」が沢山できる人になってほしいという願いを込めて書きました。
街 路
そろばん塾の向かいは飴湯屋だった買い食いを注意されてあの生姜の味をあきらめたのはついこの間のこと
魚屋の前ではたいていおにいさんが魚をさばいていたうなぎの頭に釘を刺し、シュワーと腹を割くお手並みに何度か見惚れて立ち止まった
時計屋の時計はみなてんでに時を指し正しい時刻を探すのに苦労した
旅館の主人はいつも上がり框に座り込んで相撲を見るか客と話していた
本屋のおにいさんに挨拶をしてうどん屋の前を通り過ぎる頃にはいつも本当に空腹だった
饅頭屋、銀行、病院の匂いを嗅ぎ分けながら家路を急ぐショーウィンドーの服や布地をチラリと見やりそれを着た自分の姿を勝手に想像したりもした