【前回の記事を読む】隣りの部屋の住人は同期の男性だった! 同期が壁一枚隔てた向こうにいると思うと気が抜けず…

訳アリな私でも、愛してくれますか

「それがな……この間、男連中で飲みに行ったときのことを思い出してな。そこで話したんだが、あいつ今結婚したい女がいるんだと。子どももできたって言うから、昇進させてやりたいだろ? 親心みたいなもんだ」

「……それ、私が同じことを言ったらそのクライアントは私の担当になるんですか?」

「おいおい水瀬、そんなケチなこと言うな。彼はこれから、一家の大黒柱になるんだぞ?」

頭に不可解な靄が巣食う。同じ国に生まれ、同じ言語を話しているはずなのに、言葉がうまく理解できない。何がこうさせているのか、まったくよくわからなかった。

「今回はさぁ、あいつに譲ってあげてくれよ。な? 結婚の前祝いだと思って。フォローには、島田がつくから安心しろ。な、島田君」

課長はすぐ近くにいた島田に声をかけた。島田は同じ課のチーフで、入社したての頃はくるみの教育係をつとめてくれたこともある。悪い人ではない、むしろ島田は若手の方では尊敬できる部分のある人だった。

「はい? あ、昨日の件ですか? 水瀬さん、すごい大きなクライアント取ってきたよね。今期のMVPはうちの課かな~」

島田もクライアントの大きさに浮かれているようで、くるみが今どんな気持ちでこの会話を聞いているのかも理解していないようだった。近くにいた人だったからこそ、この経緯を聞いて何の疑いもなく、くるみが悲しく思うことも何も想定せずに浮かれていられることが信じられない。

それとも、課長から島田には、くるみが自分からクライアントの担当変更を申し出た、とでも伝えられているのだろうか。

(どのみち、地獄だな……)

まだ、篠田という男がくるみの納得するに値する優秀な人間だったのなら、少しは納得できたのかも知れない。

(……これは、何かの夢? 悪夢だっけ?)

これまでのくるみの継続的な頑張りを評価して大きな会社を紹介してくれた顧客にも顔向けできない。そして今回のクライアントは、その経緯を知っている。くるみが担当を外れたと知ったら、何を思うのだろうか。

「……あの、私は全然納得してないんですけど……」

「水瀬は篠田から何社か、引き継ぎしてくれ。全総力をこのクライアントに向けるって、張り切ってたからな」

昨日、篠田と課長が2人で退勤時間後にタバコ休憩をしていたのを知っている。その場で、この話がなされたのだろうか。私のいないところで課長と篠田は話を取り交わして、篠田は大きなクライアントを持てて昇給と昇格にはずみがつき、喜んだのだろうか。

(もし彼が私に劣等感を抱いたとしても、それはそれでむかつくけど……)

「とにかく、そういうことで。よろしくな、水瀬。真面目にやってりゃ、また大きなクライアントが来るから」

くるみは何も言い返せずに目から溢れ出る涙を隠してトイレに向かった。