【前回記事を読む】「ナニ語で考えているのか、わからない」3ヶ国語を話せる香港生まれ日本育ちの男性の葛藤
第二章 すぐそばにある、知の分断
ネイビーが首をゆっくりまわし、凝りをほぐすようにして語りはじめる。
「むかし、恥ずかしい思いをしたことが何度もあってさ」
若い頃、華僑の実業家とはじめて商談する席があってね。おれの英語で真剣勝負はまずいだろって思ったから、その日は、法務がわかる通訳に同席してもらった。ところがね、話のほとんどは、ビジネスじゃなかった。その社長さんが訊くんだよ。能美さん、ワタシは俳句の勉強をしています。
俳句のルーツには、風水につながる思想が流れていると思いますが、どうでしょう?
その後もロンドンで、あちらの銀行家と仕事をしたときは、相手がメシを食いながら言うんだよ。
能美さん、ヒロ・ウザワ*1は、ノーベル経済学賞を取るべきだった。そう思いませんか?
「おれはね、なんにも知らなかった。向こうのそれなりのひとたちに、能美とはどの程度のヤツなのか、英語力より、交渉相手にふさわしい人物か、値踏みされているような気がして身が縮んだよ。
勉強って、ホントは、なにをすればいいのかな? 英語で〈カルチャー〉っていう言葉があるだろう?
あれは〈文化〉だけじゃなくて、〈素養〉とか〈土壌〉っていう意味もある」
クマくんが、スマホで検索する。
「土壌……アグリカルチャーの、カルチャーですね」
YOさんがとなりの若者を見る。
「ハッカーも、ガイジンさんとつき合うだろ?」
「技術まわりの言葉は世界共通語が多いですが、音声翻訳も使います。それより、ネイビーさんの言っている〈文化〉はヤバいですよ。この前、タイからの留学生と友達になったら、銭湯や神社のマナーを教えてと言われて……僕、ぜんぜん知らないんだ」
和のデザインとかワビサビとか、外国のひとたちのほうが、ずっと詳しかったりする。
「うーん。要するにだな、寿司屋へ行って、ツナとサーモンとシュリンプだけ英語で言えても、入梅いわしの時季が来たな、おお、生の鳥貝も入ってるね、とか、まず日本語でいろんな経験をしていないと、ガイジンさんにも、たいして深い説明ができない。
おもてヅラを英語で話すだけじゃあ、寿司を知っているというには、薄っぺらいって……そういうことだろ」
「それな。言葉は素養の土壌なんだ」ネイビーは、YOさんのわかり方に感心する。
夫婦がまた、顔を見合わせる。
「ウチの子は、回転寿司でマグロとサーモンとオクラ納豆ばっかり食べている」
「ママ友のあいだでは、子どもが3歳過ぎると、ふつうに学習教室の話になります。
でも、わたし、子どもより自分の日本語ボキャブラが、不安になってきちゃった」
「ごめん。せっかく英語の教室を探しているのに。話の流れが違うほうへいっちゃった」
「あ、勉強になります。こういう話、僕らのまわりで誰もしないから」