前は「抱き締めてキスしたい」だった。
今度はこう来た。
「キスして」
なんか世代感じるが。ああそうか、椎名林檎。と束の間宙を見つめた。彼女の代表曲にそういうフレーズがあったと思う。
なんで「して」なの。どうして「して」なの。意味が分からない。
「する」ってんなら分かる。「していいか」ってんなら分かる。
「時止まったよね」
なんて私の娘はそういう言い方するけど、うん、時止まったよね、としかいいようがない。
どうともいいようがなくて、どんな顔をしてどんな返事をしたかさっぱり。
食材の検品をして、その間に拓也さんが夕飯のお箸や茶碗を用意したり、お茶を淹れたりする。拓也さんは左麻痺なので私の左側から、すっと右手を伸ばす。
距離が近いような気がする。雰囲気。それはないようで確かにあるものを意味する名詞だ。私と拓也さんの雰囲気は得も言われぬ、そんな感じになってきた。
ほかの利用者さんとも話をしたり、お風呂にいれたり、トイレの手伝いをしたり、することは山ほどある。簡単だけど山ほどある。利用者さんが食事を取っている間に、記録を書く。
職場の先輩は言っていた。
「利用者さんの記録を逐一書くことになっています。生活の場といいながら記録し、管理が求められます。それが職員と利用者さんを窮屈にさせているんでしょうね」
ヘイ、Siri、全くそうですよね。