接種時、訓太郎は体調良好だったが、接種直後あろうことか重大な変化が起きた。発熱し、呼吸が荒くなり、意識朦朧状態となった。

重症の副反応アナフィラキシーショックである。救急搬送された病院で、佳代はいきなり「できるだけのことはしますが、更に急変して死亡する可能性もありますのでご覚悟はしてください」と宣告された。佳代の頭の中で、後悔という言葉がグルグルと渦巻き始めた。

接種した結果こうなった。だが接種しないで感染しても後悔しただろう。何がいつ起こるかは誰にも分からない。

だが幸運にも、訓太郎の回復は順調だった。症状は3日で消失し、主担当医の津島から説明があった。

「渡瀬さん、ご主人はよく頑張ったと思います。しかし、副反応の症状により筋力、嚥下力が低下し、認知症も進んだようです。元の生活に戻るのは難しくなったと思います。治療は終わりましたので、転院することになります。これから先のことについては、医療相談員、退院支援看護師と詳細を話し合ってください」

佳代は言った。

「主人は尊厳死協会の会員です。かねがね自宅での療養と看取りを強く望んでいました。そのため、介護機器も揃えています。治療が終わったのでしたら、今日にでも自宅に連れて帰りたいのですがよろしいでしょうか?」

津島医師は想定外の話に慌てて身を乗り出した。

「奥さん、ちょっと待ってください。奥さん一人で介護するのは無理です。症状は順調に回復していますが、体力と知力の衰弱が思いの外進んでいます。歩けないし、車椅子に乗せるのも大変だし、排泄も介助ですよ。大体ご飯が食べられないんですよ。

ご主人はこれから、老衰が進行し、急変して亡くなるかもしれません。奥さん一人で大丈夫な訳ないじゃないですか」常に冷静な津島医師も、『今日にでも自宅に連れて帰りたい』と聞いて、佳代に当惑した視線を注いでいた。

佳代はその視線を躱(かわ)すように自分の意思を伝えた。「もういつ旅立ってもおかしくないくらい、知力も体力も落ちているのはよく分かっています。時間がないからこそ、一日も早く、主人の大好きな我が家へ、連れて帰ってあげたいのです。ところで、食事の方は食べられるようになるのでしょうか?」

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