第1話 尊厳死協会会員 渡瀬訓太郎物語
(1)
国分寺駅からほど近い公園の中、朝の10時である。公園はビルの谷間にあり、陽だまりのような空間である。遊具の周りには樹木があり日陰も散在している。車椅子に乗っているのは渡瀬訓太郎90才、それを押しているのは妻佳代だ。
佳代はベビーカーを押す若いママたちを遠目に見ながら、コスモスが咲く花壇のそばの、大きな銀杏の木の下で車椅子を止めた。訓太郎は銀杏の木に掴まって立ち上がり、杖を取り出すと花壇に沿って歩き出した。佳代は車椅子を置いて付き添った。
公園を一回りするのが日課である。訓太郎は身長が高い。腰は曲がって前傾姿勢で歩いているが、バランスは良い。砂遊びをする子供たちの笑い声とママたちの話し声は、毎朝のエクササイズのBGMだ。
「ああ、気持ちがいい。いい秋風ね」
佳代は両手を大きく上に上げて、背筋を反らすと、空を見ながら空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
訓太郎は佳代に微笑みかけて言った。
「大地を踏みしめて立つと、地面から巨大な力が伝わってくるんだよ」佳代は足を広げて立つと、大地を踏みしめるポーズを取った。
「よいしょ」
佳代は腰を下ろし、胸の前で二拍手、それから四股を踏み始めた。
「どすこい」
訓太郎が声をかけた。すると、佳代は低い声で
「東〜 佳代の山〜」と言って、雲竜型の土俵入りを始めた。
「よっ、佳代の山! 日本一!」と訓太郎が大きな声を出した。
するとパチパチと拍手が起きた。若いママたちの視線を集めていたのである。佳代は振り返って二礼し、若いママたちに手を振ったあと、訓太郎とハイタッチをして大笑いした。今日の佳代の服装はスカートだったが、佳代の茶目っ気を、訓太郎は好ましく思っていた。
「女を捨てちゃったの?」
佳代をからかいながら、訓太郎は銀杏の木に近づき、幹に耳を当てた。
「あなた、何か聞こえますか?」
「木の幹の導管が水を吸い上げる音だよ。ゴーゴーとすごい音がする」佳代も銀杏の幹に耳を当てた。
「本当、すごい生命力ね。いっぱい力をもらって、若返ったわ。さあ、帰ってお昼を頂きましょう。今日の午後はコロナワクチン接種よ」
渡瀬家のマンションは公園の隣である。家に着くと、訓太郎は佳代に聞いた。
「コロナワクチン、本当に大丈夫なんだろうね」
ワクチンの副反応が社会問題化しており、佳代がかかりつけの医師に相談したところ、
「確かにワクチン接種で、ごく稀に副反応が出て重症化することがあります。しかし、接種しないで感染すると命取りになる可能性もあります。厚生労働省は高齢者に接種を推奨しています。しないより、した方がいいということでしょうか。私は接種をお勧めします」と答えた。
その答えを聞いて、佳代の悩みは更に深くなったが、接種を決めた。