【前回の記事を読む】息子は歩道を歩いていたがバイク同士の接触事故に巻き込まれて重度の脳挫傷。飼い犬のジョンもまた事故に巻き込まれて亡くなった
第一章 事故
手術はなかなか始まらなかった。いつになっても手術室に運ばれない状況に苛立ちながら、まさ子は透にずっと付き添っていた。ここに来た直後は、まさ子の声に反応して目を開けたりしていたが、やがて反応が鈍くなっていく。
素人ながら、このままでは死んでしまうのでは?と思うと、胸が苦しくなって自分のほうが先に死んでしまいそうだ。深夜になってようやく手術室へと移動してくれた時、それだけでまさ子は大きく安堵した。
しかし、やがて手術室から出てきた松井は、相変わらずデリカシーのない言葉を次々と浴びせかけるのだ。
「ほんとに打ちどころが悪かったですね。脳挫傷といってもいろいろなんだが、彼の場合は延髄をやられてる。延髄っていうのは、呼吸とか、生きることに欠かせない活動を司るところなんで。直接生き死にに関わるわけです。手術で血腫は取り除きました。
あと、シャントといって、脳内の髄液が溜まって脳みそを圧迫しないように、髄液を他の場所に流してやる手術もしました。数日ICUで経過をみて、その後はリカバリー室で、様子をみることになりますが、まあ最初に言いましたけど、期待はしないでください。ほぼ脳死状態ですから」
(脳死状態……)
まさ子はもはや、立っているのがやっとの状態だ。幹雄は気丈に平静を装い、松井に頭を下げた。
「ありがとうございました」
松井は軽くうなずくと、キャップを取りながらスタスタと去っていった。まさ子はやり場のない思いを胸に、その後ろ姿を見つめた。
この病院では、手術後ICUほどの設備は不要なまでも、合併症等に対応する必要がある患者の容態が安定するまで頻繁に患者を観察できるように、「リカバリー室」を設けていた。一般病棟と違い、「休息」より「治療」に特化した部屋だ。
だから、患者がいかに快適かより、医師がいかに診療しやすいかに重点が置かれている─まさ子にはそんな気がした。八床あるベッドに横たわる患者は全員裸に紙おむつだ。透も、同じく裸だった。
そして腕、脚、胸、口、鼻、頭頂部と、身体のそこかしこにチューブがつながれている。ふさふさだった黒い髪も、緊急手術を終えて戻ってくると、全て剃り上げられていた。
(それは仕方がない。みんな治療のためだから)
まさ子は一生懸命納得しようと努力した。でもこの部屋の不衛生さだけは、どうしても我慢がならなかった。
(ICUは、あんなに綺麗で、設備も最新式のものが揃っていたのに……)
手術後数日を過ごしたICUが〈白〉だとすれば、リカバリー室は〈煤けた薄茶色〉。強い薬品の匂いに混じって、何の匂いか饐(す)えたような臭気が漂い続ける。