プロローグ

地下鉄の擦り切れた階段を上ると、外は小雪が舞っていた。師走の銀座は、いつものようにクリスマスセールで賑わっている。世界を襲ったパンデミックも終息に向かい、人々は個人的な不幸でも抱えていない限り、恒例のお祭りムードに引き寄せられる。そんなプラスのオーラが充満している街角へ、男はあてもなく一歩を踏み出した。

窪んだ眼窩とこけた頬は、とても三十代には見えない。広くせり出した額、その頂で晩秋の芒野のように揺れる眉。ひどくのっぺりとしたその顔は、幽鬼とでも呼ぶのが相応しい。

しかし、人々を畏れさせ、忌み嫌われる霊界の使者、と表現できるほどのマイナスオーラを発散しているわけでもない。生と死のエネルギーを調節するボリュームがあるとすれば、男の場合、そのつまみは限りなくゼロに近いといってよかった。

その姿は、しっかり目を凝らさなければ捉えられない。まるでグレーのグラデーションがかかった影だった。ゆらゆら、ゆらゆら。影はそのまま限りなく透明に近い白になり、人波に溶け込んで消えてしまうかと思われた。しかし、一瞬ふらついて揺らいだ次の瞬間、グラデーションは一気に濃い黒へ振れた。

「くそっ、殺ってやる」

怒気を含んだ声が、影に実体を与えた。

と、すれ違った若い女は「ひっ」と身構えて後ずさりした。薄汚れたフリースのジャケットとジーンズ、黒いリュックには家財道具が詰め込まれているのか、異様に膨らんでいる。正気を失ったホームレスか、通り魔だったとしてもおかしくない。

しかし、男にそれ以上動きがないと分かると、女は店のウインドーに飾られたブランドもののバッグに気をとられ、連れと談笑を始めた。影のグラデーションは、また限りなく透明に近い白へと戻っていった。