一九〇五年(明治三十八年)八月、孫文がヨーロッパから東京に帰ったのを機会に、興中会(孫文)、華興会(黄興)、光復会(康有為)を統一する機運が起こり、東京赤坂榎木町の内田良平氏宅で、孫文、黄興等が会合し、前記団体を統一して「中国同盟会」(革命同盟会ともいう)を結成する。

「中国同盟会」の創立は一九〇五年(明治三十八年)八月であるが、この時孫文は齢四十歳である。これから二十年の間、一九二五年(大正十四年)、北京に於いて病死するまでの孫文の人生史、否、中国革命史の第一頁はこの時にめくられたのである。

この意義深い日のことは孫文―中国革命史の研究者の忘れてはならぬものだ。因みに、同盟会の正式創立大会は八月二十二日、東京赤坂霊南坂の坂本金弥宅で開かれた。

その時、中国同盟会の理念として、孫文が主張する民主、民政、民生の三民主義を承認。

政策綱領として次の六項を決議している。

一、清朝転覆。

二、共和政府の建設。

三、世界平和の維持。

四、土地の国有。

五、中日両国の国民連合。

六、総裁 孫文。

実行委員長 黄興。

幹事 宋教仁、張継(ちょうけい)、胡漢民、李烈鈞(りれつきん)、李根源(りこんげん)。

同盟会は本部を東京に置いた。中国同盟会の主幹は、謂わば広東の革命勢力(孫文)と湖南(こなん)の革命勢力(黄興)の合作であり、孫文は軍資金調達を、黄興は戦線の司令官の役目を分担するような実際の運営となった。

 

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