誰かを深く傷つけることのなかった今日。嗚咽するほど泣かずに済んだ今日。怒りを爆発させて取り返しがつかなくなんてならなかった今日。
自分が運転する車で誰かを轢いてしまうこともなかったし、運転中にブルルと鳴ったスマートフォンをちらと見たからといって先行車に追突することもなかった。
手に持った箸を不意に子に振りかざして刺してしまおうともしなかったし、コツコツと貯めた同世代の中では割と高額な貯金を競馬一レースで使い果たしたりもしなかった。
誠実に生き、私なりの及第点に達して終える一日。それを毎日繰り返していくことが、私にとっての「生きる」なのかなと思う。
そんなことを考えられることそれ自体がもう、私が今不幸ではなく、良い世界の住人であることを象徴しているのだろうか。
そんなことを考えながら、人けの少ないカフェで友人を待つ。無意識にインスタグラムを開く。最後に自身が更新したのはいつだっただろうか。
直近の投稿は一週間前だった。よし、良い調子だ。上手い具合に、月日が消化されている。インスタグラムに投稿する背景には、承認欲求だとかマウンティング欲求だとかが存在するとはよく言われる。
が、そんな風に単純に一括りにされるのはなんだか癪で腑に落ちない。承認欲求は誰にでもあるものであるから、それをたかがインスタグラムの投稿頻度や内容ではかるのは軽薄だし、別に私は誰かを貶めようとか、誰かに敬われたいとかいう狙いで投稿しているわけではない。
ただ、音の連なり=私だけのうんと私らしい文字の集合体を、この世に吐き出すことで、何かしらを消化したいのだ。そのようにしてようやく無事に終えられる今日もあるし、穏やかに迎えられる明日だってある。
ふとこれから会う米ちゃんの投稿が目に飛び込んできた。深夜に撮ったのだろうか。薄闇の路上で、天橋立のまたくぐりの模範のようなポーズをとって、長い髪を地面に垂らしている様は少々下品だ。
「おやすみ世界。今日も、生きてしまいました」
写真にはそれだけ添えられていた。
次回更新は8月4日(月)、19時の予定です。