憧れのニューヨーク
新聞社で働きはじめてから8年になろうとしていた。
その頃からなんとなく仕事に力が入らなくなっていた。スポーツの取材や芸能人へのインタビューは面白かったが、何しろ給料が安かったのである。まともに生活していくためには別のアルバイトをしなければならなかった。定時制高校卒業のボクの給料はあまり仕事のできない大学卒の先輩より遥かに劣っていた。これがとても頭にきていた。
そして1年前に旅行で出かけたニューヨークがボクの心の中で大きく広がっていた。英語だってまともに話せないのに、ボクは新聞社をやめてニューヨークに行く決心をした。
1983年6月23日、35歳だった。アメリカに永住するなんて考えてもいなかったが、できたら数年この地で写真の勉強をしたい。ボクは飛行機の片道切符を買ってニューヨークにやってきた。あの日JFK空港に降り立ったボクのポケットには全財産5千ドルの現金しかなかった。「なんとかなるさ」と心では思ったが、不安は隠せなかった。
最初に訪ねたところは、7番街と37丁目にある日系2世のポートレートとファッションを撮っている日系カメラマンのスタジオだった。その頃ポートレート写真にすごく興味があって、日本から「助手にしてください」と手紙を出したがむげに断られた。それならばと直接スタジオを訪ねたのだ。
そんなボクを見て彼は驚き、渋々置いてくれることになった。給料なし、スタジオにある折りたたみのベッドで寝起きして、毎朝の掃除から撮影があればそのアシスタントをしなければならなかった。とにもかくにも念願のニューヨーク生活が始まった。ニューヨークの街は活気があり人が生き生きしていた。いろいろなイベントがあり、ボクは暇さえあれば街に出かけて写真を撮り、記事を添えて日本の雑誌社などに送った。
そうこうしているうちにスポーツ新聞や雑誌などから仕事が舞い込むようになったのである。運がよかったのはその頃まだ日本人のスポーツカメラマンは少なくて、その一方ゴルフや野球など日本人選手の活躍は著しく、仕事がどんどん入るようになったことだ。その頃はスポーツカメラマンになるつもりはあまりなかったが、生活のためにこちらを選んだ。
ボクは住まいを写真スタジオから47丁目とブロードウェイにある古いビルの2階のアパートに移した。ニューヨークに来てから約半年、初めて写真で稼いだお金での生活が始まった。
幸運だったのはこのビルの1階に「サッポロラーメン」という日本のラーメン屋さんがあったことである。そしてブロードウェイの劇場にも近かったのでタイムズスクエアのチケット売り場で一番安いチケットを買い、いろいろなショーを見て回った。
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