「これ! 一回、今の歌のまんまでいいので、その感じで読んでもらっていいですか!」
先輩に不躾に突きつけた僕の走り書きを、先輩の声は形に起こしていった。心の底から書きたいと思うほどに、先輩の声は艶やかで、そして美しかった。綺麗という言葉で取り繕うにはあまりに明媚で、僕と先輩の二人だけが現実というフイルムから切り出されたような、冷たいものが入る隙間のない彩りだけが支配した時間が流れた。
僕は、この激情が動くままに一心不乱に筆を走らせる。先輩は差し込まれる僕の原稿に合わせて、時に声で、時に振りを付けて表現してくれた。
このままの時間が延々と続いてしまえばいい。それほどまでに今、物語を描くことが楽しかった。
まるでテニスのラリーのように続いた問答も終わり、僕らは芝生に倒れ込んだ。
大の大人が二人、子供のようにじゃれ合って息も絶え絶えになっている。二人して汗だくで同じ空を見上げている。その状況が、どうにもおかしくて、自然と笑えてきた。疲れて指の一本も動かせないような感覚に陥ったが、僕の心は久々に満たされていた。
何年ぶりだろう、あんなにも世界が澄んで聞こえたのは。
錯覚だとか、幻ではなく、本当に聞こえたのだ。物語に眠る音……感情や環境音。そのバックグラウンドさえも聞き取れるような、物語に染め上がった世界。一瞬の雑念さえない空間だった。瞳を閉じれば今でも目の前にある、風にそよぐ草の音色、悠々とした言の葉、そしてそのすべてが、霧の湖に響く朝露のように澄み渡っている。
これが、純粋な“楽しい”という感情なのだ。僕は記憶の底にあったそれを、ようやく理解した。
「先輩」
「ん?」
「僕、久々に書きたいかもです。本」
「……そっか」
見上げた空には、赤い薄布がゆっくりと敷かれていった。
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