御蔭様で高也も無事、高校を卒業し、上越で役所の土木課に就職が決まりました。これも陰ながら、御支援くださいました隆志さんの御蔭です。深く、感謝申し上げます。本当に長きに亘り、有難う御座いました。
尚、長きに亘り御支援を賜りました御金につきましては、今後は何卒、御自分と御家族のために御使い下さいますように、伏して御願い申し上げます。
何の御恩返しもできない不甲斐ない『義姉』で御座いました。お許し下さい。また藤井と貴方様との御交誼については過去の出来事として御忘れ下さい。
隆志さん、もう御自分を責めずに、御自身を許してあげて下さい。これが藤井の願いでもあり、私の思いでもあります。
乱文乱筆は何卒ご容赦下さい。また浅学の為、至らぬ文面はどうか御許し下さいませ。
昭和四十二年三月二十日 藤井容子」
古い便箋に丁寧に書かれた文字を最後まで読み終えた僕は、しばらくぼんやりと考えていた。父の躰にあった「唐獅子牡丹(からじしぼたん)」の刺青と手紙にある「藤井」という人物との関係に想いを巡らせていた。
しかし僕には、綴られている内容を理解することや、想像するために必要な父の情報が圧倒的に不足していた。慈福園と慈福寺。
そして「藤井容子」という名前だけが、頭の片隅にある暗い部分で、疼くように蠢(うごめ)いていた。それが少しずつ意識のある部分に沁みだしてきて、何らかのヒントや啓示を与えてくれることを、僕は静かに期待していた。