一歩
登校途中の子どもたちの声が止み、静けさを取り戻していた。
美智子はそっとアパートの鍵を回す。
白い綿のブラウスに、はきなれたチノパン、ローファーの靴。よそ行きと言ってもアイロンをかけただけ。そんな美智子が都会でもすっきりと見えた。
誰にも会わずに通りへ出る。徒歩で三十分弱。
夫の孝介は美智子がパートに出ることに反対だった。由布子が学校から帰ったときに誰も居ないのは可哀想だと。
美智子もその気持ちは同じだけれど、田舎だったら近所は知った人ばかりだから話もできる。ここでは二人を送り出して家事を済ませたら、することがない。
田舎では畑の仕事、庭の手入れなど体を動かすことはいくらでもあったのに。狭いアパートの中でじっとしている生活を続け、このままでは窒息しそうだ、由布子を連れて田舎に帰ろうと思い始めたころ、花屋のパートの声をかけられたのだ。
その花屋は、店先に寄せ植えの鉢をいくつも置いている。蔓性のものや細い葉の美しい蘭の種類など、葉の形や色をうまく取り合わせてある。
田舎の庭だったらいくらでも作ることができる。こんなものが都会では好まれるのだと、美智子は通るたびに感心して眺めていた。
花屋の主人が、寄せ植えが好きなんだねえと声をかけてきた。
田舎の庭が懐かしくてと、美智子は笑いながら弁解した。
そんなことから話をするようになり、ちょうど人手が必要になっているから働いてみないかと言われた。子どもが気になるなら、市場から仕入れてきたものを、仕分けするところまででも良い。畑をやっていたなら植物の扱いは得意だろうからと。孝介には事後承諾だった。孝介も美智子の憔悴した様子に気づいていたから、反対はできなかったのだろう。
次回更新は7月15日(火)、19時の予定です。
【イチオシ記事】一通のショートメール…45年前の初恋の人からだった。彼は私にとって初めての「男」で、そして、37年前に私を捨てた人だ
【注目記事】あの臭いは人間の腐った臭いで、自分は何日も死体の隣に寝ていた。隣家の換気口から異臭がし、管理会社に連絡すると...