第一章 黒百合祭壇(さいだん)

鋭(するど)い刃が振り下ろされた――

意識が一瞬遠のいた。が、徐々(じょじょ)に戻ってきたようだ。正確には、私自身の中にではなく、その場所に在る私の頭部の少し上辺りに意識が戻り、周囲の様子を窺(うかが)う感じだ。

なんだか様子がおかしい。

この眼で見るものはもう何もない気がするのに、視(み)えるのはなぜ。 辺りの様子は先ほどとは変わりはないようだ。

ただ、私の視(み)ている角度が異なるだけで。

暗闇の洞窟(どうくつ)のその一番奥に設けられた祭壇(さいだん)や、岩や土砂や粘土の湿った鉄臭いにおい、そして、つんと鼻を突く濃厚で刺激のある甘いお香にはとても馴染(なじ)みがある。

確か、私は物心(ものごころ)ついた頃には親から離れ、ここに来ていた。もう家族の顔も名前も人数すらも覚えていない。

ここに来てからは毎日、昼夜を問わず何やら鍛錬(たんれん)していたように思う。選ばれることはとても名誉なことで、その子どもの親兄弟姉妹と一族は未来永劫(みらいえいごう)、名誉と富裕を約束され、とてつもない栄誉(えいよ)なのだと教わった。

しかし今、私の意識は肉体から少し離れた場所に浮かんでいる。

なぜだろう?

冷静になって一つ一つ順を追って思い出してみよう。

そうするとやはり奇妙だ。聖なる祈りという名の厳しい修行は約八年、人里離れた山の奥地で秘密裏(ひみつり)に行われる。

ここでは喜怒哀楽は無用の長物(ちょうぶつ)とされ、まず最初の一年で消滅する。次第に人間であることすらも忘れていく。

洞窟内で焚(た)かれるお香は最高に甘く濃密で、五感を鈍らせ外界(がいかい)の向こう──遥(はる)か彼方(かなた)──へと忘却(ぼうきゃく)させる。

それと同時に内界は無限に拡がり、あらゆる事物を昇華(しょうか)するとともに内在させ永久を実現する。


※黒百合の花言葉…呪(のろ)い、復讐(ふくしゅう)、愛。

 

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