一人の高僧の意見は皆の気持ちを代弁していた。しかし、人々の心配を他所に、世阿弥は涼しい顔でさらさらと短冊に句を書き、詠み始めた。
「罪をしるー 人はむくひのー よもあらじー」
罪を犯しても罪を犯したと自覚のある人には報いの後世など無い、慢心し過ぎたからといって報いを受ける事は無いだろう、という句である。注目していた一同は前句以上に深淵な句に、息を呑んだ。暫しの沈黙の後、賞賛の声が上がった。
「まっすぐで説得力がありますな」
「罪、という出だしが強くてよろしい」
「さらっとしている様で、実に深い」
「これは賢者の句ですな」
最後に結論付けたのは二条良基であった。世阿弥は彼らの皮相的な意見に失望した。世阿弥は、親鸞の『善人なおもて往生する、いわんや悪人をや』を意識した句を作ったつもりであり、居並ぶ天台宗、真言宗の高僧達が、敵愾心を抱く親鸞の様な句にどんな皮肉を言うか、試してみたのである。ところが、そんな深い意図に気が付いたものは皆無だった。
─―これだけ錚々(そうそう)たるお歴々が集まっても深い議論にはならないものなのか。
連歌など結局は言葉遊び、虚しい暇つぶしに過ぎない様だ。俺が芸術に求めるのは、もっと違う何かだ。少なくとも古今集や新古今集の和歌にはその何かがある。だからこそ何百年経っても心を打つのだ。こんな下らない連歌など、作っても作ってもすぐに忘れられ、残る事は無いだろう─―