【前回の記事を読む】12歳の能役者・世阿弥に心を奪われ、興奮醒めやらぬ二条良基(55歳)の手紙「…この手紙は読んだらすぐ、火中に入れて下さい。」

出会い(一三七四年)

十代の義満の言動は、細川頼之にとってかなり度を越したものに思えた。一三七四年八月、反対を押し切って建国間もない明の初代皇帝洪武帝に使者を送るも、相手にされなかった。一三七四年十二月にインド人を小姓に雇ったかと思うと、博多に住む中国人医師を呼び寄せようと大騒ぎして断られた。

翌年三月二十七日には、石清水神社を真新しい、身分不相応に豪華な牛車で訪れて人目を惹いた。この時は将軍の権威を見せる為と、細川頼之自身も他の大名と共に数百騎を引き連れて供奉したが、多くの見物人が集まり、都は大変な騒動になった。

そして何より一介の能役者に過ぎない世阿弥を度々呼び寄せ、対等の友人の様に付き合い始めた。まるで保守的な大人達が驚くのを楽しんでいるかの様だ。細川頼之はこれは若さの故か、義満の性質なのか、測り兼ねたが、落ち着かせる為には結婚させるのが一番の方法だという結論に達した。

折よく、公家の日野宣子(のぶこ)が、自分の姪の日野業子(なりこ)を義満の正室にどうかと推薦して来た。意外な事に義満はすぐさま承諾した。実は義満は内心、結婚したいと思っていたのである。

というのも、三月二十五日に初めて参内し、同年齢の従兄弟である後円融(ごえんゆう)天皇に会った時、宮中に若い女性が大勢いる事に気が付いたからである。天皇は、義満の様に才気煥発でも無ければ魅力的でも無い。しかし、あわよくば寵愛に浴したいと願っている若い女性達に囲まれているのだ。

全ての面で優位に立ちたかった義満は、この時、天皇より先に結婚し、子供を作ろうと心に決めたのだった。義満の承諾を喜んだ細川頼之は、念の為に質問した。