一人加わっただけで時計台の周りがさらに賑やかになる。
ふいに、ふくちゃんが繰り返し話していた、僕が四歳の時の話を思いだす。
買い物に出かけては走り回る僕を、必死に追いかけていた母。そのうち、母も楽しくなったのか二人で大はしゃぎして警備員に叱られたという。
それを聞いた父は、「沙代子らしい」と大笑いし、ふくちゃんは呆れたそうだ。 僕の記憶の中にいる母も少女のように無邪気な人だった。
そんなことを考えていると、時計台の向こう側にある自動扉から、黒いパーカーのフードを目深(まぶか)にかぶり、穴のあいたジーンズを穿いた背の高い男が入ってきた。太郎だと思った。僕は立ち上がり手を振る。
いつもは黒いマスクだが、今日は白いマスクが妙に浮いて見えることに不自然さを覚える。
彼はいつものように、僕が手を振っても何のリアクションもせず、真っ直ぐこちらへ向かって、ゆっくりと歩いてくる。今回は彼が誘ってきたのだから、せめて片手を上げるぐらいはしてほしい。
そんな思いで見ていると、時計台の後ろまで来た彼が、ゆっくりとあたりを見回した。また僕が右手を上げ、歩き出した時、事件は起きた。
太郎は突然時計台まで駆け寄ると、パーカーのポケットから右手を出す。その手にはナイフがしっかりと握られていた。ギラギラと異様な輝きを放つその目に怯(ひる)む。
太郎ではないと気づいた瞬間、その男は大きな奇声を発した。
次回更新は6月24日(火)、20時の予定です。
【イチオシ記事】妻の姉をソファーに連れて行き、そこにそっと横たえた。彼女は泣き続けながらも、それに抵抗することはなかった