【前回の記事を読む】家宝の刀、郷則重。脱藩して2年…仕事も失い食うに困った今、質に入れるか、入れまいか…。

兆し

寝転がっていた猛之進は半身を起こして暫く考えていた。どのくらいの値がつくのか聞くだけ聞いてみても損はあるまい。

加えて、弥十郎が執拗なほど言っていた刀身の反りも気になるところである。

起き上がったが少しふらついて足元が覚束無い。昨日から食べ物らしい食べ物を口していないのだ。米の残りはあと僅かであるのは米櫃(こめびつ)を覗かなくても承知している。

何とかしなくては仇討を迎え討つどころか飢えて死ぬことにもなりかねない。長屋の者たちとは隣の大工夫婦を除けばあまり付き合いもないので、大方の住人は偏屈な浪人者だと思っていることだろう。

尾羽打ち枯らす浪人者が町人に食べ物を分けてくれと言うのもお笑い種(ぐさ)である。口入れ屋に顔を出し慣れない仕事でも探すかそれとも辻斬りでもというところにまで猛之進は追い込まれていたが、流石に盗っ人まがいのことをしてまで方便の糧とする気はなかった。

その気になればこの広い江戸には食う為の手段はいくらでもあろう。しかし、猛之進のできる仕事といっても用心棒くらいなものだ。

もう一つ道場破りという手もある。そう考えて少しばかり目の前が明るくなったような気がしたが、よく考えればそれも簡単ではないことに気付かされるのだった。

江戸には士学館の鏡新明智(きょうしんめいち)流、伊庭是水軒秀明(いばじょすいけんひであき)が開いた心形刀(しんぎょうとう)流、樋口定次が確立し伝えたと言われる真庭念(まにわねん)流などの流派が顔を揃えていた。名のある道場にはまず顔は出せない。