刀の反り
武州浪人須田猛之進(ぶしゅうろうにんすだたけのしん)は、先祖代々家宝として引き継がれ伝えられてきた太刀(たち)を質草にするか否かを思案していた。
太刀は世に名刀と云われ伝えられたるもので、鎌倉の末期に刀鍛冶、きた郷則重(ごうののりしげ)が硬軟の鋼を組み合わせて鍛えた一振りである。
父親の隠居に伴い藩の役職を引き継いだときに、家宝とされてきた宝刀も共に受け継ぐのは須田の家の慣(なら)わしでもあった。太刀は少なくみても五十両は下らないと聞かされていた。
刀の値打ちを賎しい金銭などで換算するのは武士にあるまじきことだと、そのときは父の仁左衛門を蔑みの目で見たものである。
ところが、猛之進がいま浪人暮らしをしているのはこの一振りの所為でもあったのだ。
武蔵の国――郷田藩(ごうだはん)五万石は、群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)する戦乱の世では武田家に従い五百余を超える家臣団を擁していた。
武田勝頼が長篠の戦いで大敗を喫し、郷田の城主佐久間将監忠次は城に立て籠もり武田と共に枕を並べて滅ぶ覚悟を決めたのだが、家康の家臣である徳川四天王と言われる本多忠勝による説得でその身を忠勝に預け、爾来、徳川家に帰服して現在の領地を治めてきたのである。
その郷田藩に奥番頭として曽祖父の代から手足となって勤め上げてきた須田の家は、猛之進の代で潰(つい)えてしまったのだった。それは猛之進の生まれついての偏屈な性癖の所為であった。
同輩に谷口弥十郎(たにぐちやじゅうろう)という男がいた。この男、弥十郎も猛之進に負けず劣らず圭角の多い、人と相容れない性格で、一度口にした言葉は己の道理に適っているとみれば、何がどうあろうとも取り下げようとはしなかったのである。
そのあたりは猛之進と同様、他人と折り合うことができず、白と言えば無理矢理にでも黒と言い切るような人物であった。そのようなことからみても、二人の間の諍いが遂には果し合いにまで及んだのは、幼少の頃から通う道場での立ち合いで、雌雄を決することが出来なかったことが一因ともなったのは至極当然のことだったといえよう。