【前回の記事を読む】飛行船は地上にはもう戻ることができない――これで彼は私とここで生きるしかない
第3話 最高のスープ
「ねえ、最高の料理って、どんなものだと思う?」
艶やかな黒髪に手櫛を入れながら、しなやかな白い腕を男の体にすり寄せる女は、周囲のスタッフから玲蓮さんと呼ばれている。今はそのスタッフも状況を察してか一人もいない。
玲蓮は微笑みを浮かべて、レストランの特別室の壁側に設けられた柔らかなソファに沈む酔ったスーツ姿の男を攻略しようとしていた。
大きな瞳で男を見つめ、小さなカットグラスに入ったマオタイをさらに勧める。蒸留酒であるが、爽やかな果実香が漂っている。3杯目だが男も悪い気はしない。無色透明な甘く強いアルコールが体に染みてゆく。
食品展示会への出展のため東北から出張してきた食品開発部長の里見清は、とある中華レストランチェーンから、展示会の後の社内勉強会での講師を依頼されていた。テーマは〝料亭のだしの再現〞。
里見の会社では、酵母を使って生成した多種多様なアミノ酸や核酸を利用して、人工的に老舗料理店の味を再現して、大量生産可能な商品開発を進めていた。
講演の後は、主催者であるレストランチェーン代表の玲蓮にディナーに招待されていた。
これまでの経験から、講演会の後に食事会がある場合は、大概は関係者との立食パーティで、いわゆる企業間の親睦会程度のものと思っていた。が、今回は違った。中華街からは少し外れた港側のビルの上階、中華レストランチェーン本社ビルの特別室――親睦会と聞いていたがレストランでのディナーは思いもかけず、社長の玲蓮との二人だけであった。
満漢全席のミニチュア版のような、中華が誇る料理が少量ずつ供された。
しかも広い窓からは、ベイブリッジやみなとみらい地区の美しい夜景が見渡せる。内装は伝統的な中華料理店ではなく、スタイリッシュなデザイナーズレストラン。ニューヨークのカフェのようだ。しかも照度は落とされ、色温度は低く、雰囲気にも妖艶さを醸し出していた。玲蓮はしきりに里見に酒を勧め、里見も進んで杯を重ねた。