壱─嘉靖十年、漁覇翁(イーバーウェン)のもとに投じ、初めて曹洛瑩(ツァオルオイン)にまみえるの事
(5)
おやじは、莨(たばこ)に火をつけた。
「そういえば、あの話はどうなった?」
「あの話?」
「ほれ、陶仲文(タオジョンウェン)っていかつい道士がきて、貴人に会うとかなんとかって言ってたろう」
「……何もないですねえ。ここで麵を売っているのが、なによりの証拠です」
「でも、誰かえらい人に会ったんじゃねえか?」
「建昌伯(けんしょうはく)にお目にかかる機会は、ありました」
「なに? 建昌伯(けんしょうはく)たあ、たいした御仁じゃねえか。皇太后さまの弟御だろう? 声をかけられなかったか? わしのところに来いとか、働き口を世話してやるとか」
「何も」
「そうかい」
目をほそめて、煙を吐き出す。
「縁がなかったか。ま、そのほうが、よかったのかもな」
「どうしてですか」
「ここだけの話だが、建昌伯(けんしょうはく)ってえのは、大したワルだからな。皇帝の外戚だってことをちらつかせて、人を信頼させ、金をまきあげる、だまされたとわかって、それをなじれば、裏から手をまわして、寝首をかくんだそうだぜ。そうやって殺されたのが、何人もいるってな」
「………」
「いい人との出会いってえのは、めったにあるもんじゃねえよなあ……」
おやじは天をあおいで、またプカリと煙を吐いた。
蒸しあつい、夏の夕暮れである。
火をおとし、鍋をかたづけて、青い門をくぐると、ふだんは暗い長屋街にこうこうと明かりがともされているのがわかった。入口には、何台もの車がとまっている。
その中には、朱塗りの轅(ながえ)に、竜の紋章をあしらったものもあった。
建昌伯(けんしょうはく)の車だ。
先日は厳嵩(イエンソン)どのに招待され、今日は漁覇翁(イーバーウェン)の客か。
「建昌伯(けんしょうはく)様、お強い」
「さすがでございますな」
どこからかきあつめて来たのか、女たちの嬌声があがれば、今晩の主賓がからからと笑うのがきこえる。
「よしよし、おまえたち、そこに並べ。じゅんばんに、かわいがってつかわすぞ」
その声をきくと、どういうわけか、おもちゃ屋のおやじや、黙々と包丁をふるう羊七(ヤンチー)のすがたが憶いだされた。
一時は、この人こそ、と思ったが……。