それにしても、漁覇翁(イーバーウェン)の財力は、千両を小銭とする建昌伯(けんしょうはく)の眼鏡にかなうほどのものであるらしい。
その財力のみなもとはいったい、何なのだろう? 私のような屋台曳きが何十人たばになっても、建昌伯(けんしょうはく)のような貴顕に、酒池肉林の豪遊をさせるような資産など、できないように思うのだが。
早々に退散して、帳簿の提出に行ったが、いつも帳場にいるはずの湯祥恩(タンシィアンエン)がいない。
「たのもう。誰か」
出て来たのは、三十前後の、元気な女であった。管姨(クァンイー)かと思ったが、別人である。
「あたし? 石媽(シーマー)とでも呼んでよ。ここで留守番してろって言われたの」
さいきん、やとわれた新人らしい。
「湯(タン)師兄は、いないのか?」
「ああ、あの、瓜びょうたんみたいな人? もうひとり、色の黒い、ムキムキした人と連れだって、出て行っちゃったわよ。あ、そうだ、女の人もいたわね、ゴマ塩あたまの」
さては、さっきのどんちゃん騒ぎの中に……?
どうしたものかと考えあぐねていると、質問があびせかけられた。
「ね、あなた、ここでどれくらい働いてるの?」
「え、ああ、まだ半年ほどだ」
「ここ、どう? りっぱな建物みて、びっくりしちゃった。こんなところで働けるなんて、ツイてるなあって思ってね。あたし、四川(スーチュアン)から出て来たんだ」
「それはまた、はるばる遠くから……女ひとりでか?」
「そうよ」
あるけば何十日かかるかわからない、僻遠の地である。遠いだけではない。山道にはあちこちに山賊がひそんでいて、旅人を見れば、身ぐるみはがそうと手ぐすねをひいている。男でさえ、命がけだというのに、彼女はそれを越えて来たという。
「どういう名目で、やとわれたんだ?」
「そうねえ……あの、ほら、湯(タン)さんっていうの? あの人から言われたのは、家畜の世話がおもな仕事だって」
「なに?」
家畜の世話は、ここ十年来、羊七(ヤンチー)の仕事だったはずだが。
「あとは肉をさばいたりとか」
背筋を、冷たいものが流れた。
「実家じゃ何十頭も羊を飼ってたから、これも天のめぐりあわせかなあって。あ、ちょっと、どこ行くの?」
そんなことなど、かまっていられなかった。畜舎までの道を、ころがるように走った。
(羊七(ヤンチー!))
胸さわぎが、戦慄に変わってゆく。
扉をあけた。
人のいない、がらんどうのホッタテ小屋。まな板につき立てられた角包丁が、墓標のように思われた。