孫文は李鴻章に失望して、日清戦争を横目に見乍ら十二月にはハワイに渡る。

日清戦争で清朝の軍隊は、小さな日本の軍隊に敗退、又敗退した。そのため、中国の民心は清朝から離れ、清朝に対する国民の憤慨(ふんがい)はその極に達した。

孫文は、革命の時機は熟しつつあると判断し、ハワイの華僑達に呼びかけて、広東に於いて結成されていた同志の興中会ハワイ支部を作り、そのハワイ支部会長となった。

翌一八九五年(明治二十八年)四月十七日、日清戦争の講和条約(下関条約)は結ばれた。その条約にはこんな条項があった。

一、    朝鮮の独立。

二、    遼東半島、台湾澎湖島の割譲。三、賠償金二億。両(テール)

四、    沙市(さし)、重慶、蘇州、杭州の開市。

五、    内河(揚子江)航行権の拡張。

その他の条項からなっていたが、結果として中国国民の感情は日本に対する憤慨よりも、むしろ清朝政府に対する批判と憤激の勃発にあった。

孫文はハワイから広東に行った。そして同志とともに、国民の今日の憤激こそ革命挙兵の絶好の機会だと、勇躍その準備を進めることとなる。

しかし乍ら、九月十日にして挙兵計画は早くも失敗した。そして孫文はマカオから香港に向かったが、香港政府は、その孫文等に五ヶ年の在留禁止命をつきつけた。それで孫文は、陳小白等とともに日本に向かう。

 

👉『陳璧君 考』連載記事一覧はこちら

【イチオシ記事】妻の姉をソファーに連れて行き、そこにそっと横たえた。彼女は泣き続けながらも、それに抵抗することはなかった

【注目記事】滑落者を発見。「もう一人はダメだ。もうそろそろ死ぬ。置いていくしかない…お前一人引き上げるので精一杯だ。」